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剣豪

神田お玉が池の玄武館げんぶかんは、江戸三大道場の筆頭ひっとうに数えられる名門だった。


表門をくぐった途端、空気が変わる。

街道の喧騒は背後に切り捨てられ、広い土間に満ちているのは、汗と白木の匂い、そして張り詰めた静けさだった。

打ち込まれた太鼓柱には無数の刀痕が刻まれ、長年の稽古が積もり重なった時間そのものが、道場を支えているかのように見える。

道場では、年若い門弟から老練の高弟までが、一様に無言で竹刀を振っていた。

誰一人、余計な声を発しない。

足捌き、呼吸、太刀筋――

すべてが揃い、しかし誰の動きも同じではない。

それぞれが自分の剣を磨きながら、同時に、この場の規律に呑み込まれている。

玄武館とは、剣を教える場である以前に、剣を振るう理由を問い続ける場なのだと、初めて足を踏み入れた者にも否応なく悟らせる重みがあった。



清河は、破風造りの玄関げんかんをくぐり、広大な道場の脇を抜けて、母屋の表座敷おもてざしきに通された。

そこには、ある意味この国で最も有名な剣客けんかくが、清河のために用意された座布団ざぶとんと差し向かいに座っていた。


「清河正明と申します」

北辰一刀流ほくしんいっとうりゅう玄武館総師範げんぶかんそうしはん、千葉周作はよわい五十も半ばを過ぎようとしていたが、依然いぜん眼光は鋭く、話の運びにも無駄がなかった。

「まず、なぜこの道場の門を叩いたかお聞かせ願いたい」

「強いて言えば。まぁ、手近だったということに尽きます」

清河は着物の肩に付いた糸埃いとくずを指でつまみながら、間髪かんぱついれずに返した。

千葉はこの若者の不遜ふそんな態度に何も言わず、続きを待った。

「いやね。このとなりに。東条塾ってのがあるじゃないですか」

清河はチラと千葉の顔をうかがった。

「実は私、あそこの塾生でして。幸いなことにとなりにあるこの玄武館げんぶかんは、江戸で最も有名な道場の一つです。文武の研鑚けんさんに、これ以上理想的な条件は望めない」

「君の話は、理にかなっているな」

恐縮きょうしゅくです」

「しかし。今日のところは、出直して頂いたほうがよろしかろう」

何故なぜでしょう?先生は合理性をたっとぶと伺いました。当節、三顧さんこれいもないでしょう」


「では、もう一つ。君は、剣を磨き、何のためにそれを振るうのか」

清河はたりと、鋭い上目遣うわめづかいでこたえた。

「成すべき回天かいてん偉業いぎょうのため、と心得こころえます」


随分ずいぶんな、大言壮語たいげんそうごだな」

何か言い返そうとする清河に先んじて、千葉は断じた。

何故なぜならその実、君の言う「天」はうつろだ」


清河から人を食ったような表情が消えた。

「確かに、私の理想はまだ形を成していない。であればこそ、東条一堂先生に学んでおります」

千葉周作はそれにはこたえず、昔語むかしがたりを始めた。


玄武館げんぶかんがこの神田お玉ヶ池に移ってまだ間もない頃の話だ。今の君と同じ年頃の若い武士がひとり、私の元へ入門してきた」

清河は屈辱くつじょくを顔ににじませて話を聴いていた。

「平田深喜(みき)といって、天才的な剣士だった。若輩じゃくはいながら、入門後すぐに頭角とうかくを現し、ほどなく免許皆伝めんきょかいでんに至った。しかし彼奴きゃつは、その才能におごるあまり、酒色しゅしょくおぼれ、遊興ゆうきょうふけった。仔細しさいは省くが、酒のせいで度々(たびたび)不祥事ふしょうじをしでかし、私は止む無く平田を破門はもんした。伝え聞くところによれば、その後、彼奴は侠客きょうかくに身を落としたそうだ」

講談師こうだんしが飛びつきそうなネタですな」

「平田は罪人の遺体を物斬ものぎりして、たわむれに遊郭ゆうかくに持ち込んだそうな。私が、この手で指南しなんした剣術で」

千葉は大きく息を吐いた。

「いくら腕が立っても、その剣で斬るべきが何かを心得ておらん者には、剣術など意味を持たん。これは私自身が平田から得た教訓きょうくんだ」


「え~…」

清河は言葉を探すように、あごをさすった。


「そう言えば昨日、変わった禿かむろに出会いました。まだほんの子供ですが、なかなかに芯が強いといいますか、話をするときに、こう、まっすぐ私の顔を見るんです」

話は、まるでとりとめが無いようにも聞こえたが、千葉は何も口を挟まない。

清河は続けた。

「短い時間ですが、その娘と品川砲台しながわほうだいについて非常に有意義な話をしました。

見るところ、彼女は非常に聡明で、美しく、将来有望です。しかし、如何いかんせん世間が狭い。彼女にとっての世界とは、あの狭い花街はなまちが全てです。これは悲劇ではないですか、先生。

彼女の持つ優れた想像力も、やがて身にまとうであろう匂い立つような色香も、全てはあの吉原大門で行き止まりです。

ねえ、これを悲劇と言わずしてなんと申しましょう。

実を言うと先生、これは無礼を承知で申し上げるが、最初にお会いした時、先生とその娘の顔が、私には重なりましてね。

思うに、一つの道を極めるということは、ある意味で人間を頑迷固陋がんめいころうにしてしまう。

是非ぜひもないとは言え、なんとも残念な話だ」

清河が慇懃無礼いんぎんぶれい長広舌ながこうぜつを振るう間、千葉は目を閉じたまま黙って聴き入っていた。


「なるほど、御高説いたみ入る」


精一杯の意趣返いしゅがえしを、一刀両断された清河は、やれやれと首を横に振って席を立った。

「今日はこれで失礼します」


廊下に出たところで、彼は何か思い出したように振り返ると、千葉にたずねた。

「で、先生、その平田深喜ひらたみきとやらは今、どうされておられます?」


「死んだよ、数年前。利根川の河川敷でヤクザ者の大乱闘に加わってな。太刀回りを演じた挙句、ナマスにされたそうだ。馬鹿な奴だ」

千葉は吐き捨てるように言った。


「君の中でその、回天かいてん偉業いぎょうとやらがもう少しはっきりと形を成した時、まだ北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうを修める気があれば、もう一度、ここを訪ねなさい」

「わかりました。それまでは、せいぜい平田殿のてつを踏まぬよう心掛けましょう」

清河は、玄武館げんぶかん辞去じきょした。




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