水戸
水戸に来て一月が経ち、季節は蝉が鳴く頃へ移ろっていた。
鈴木大蔵は、かつてないほど充実した日々を過ごしている。
これまでの窮屈な境遇から解き放たれ、今や多くの幼い士族と同様、年相応の生活を享受していた。
生まれついて身体が弱かった大蔵は、見た目こそ女のように華奢だったが、元来剣を振るう才覚があり、たちまち道場でも一目置かれる存在になっていた。
道場主金子建四郎は、水戸藩の小十人を務める実力者であり、内弟子となった大蔵にとっては、厳格な師であると同時によき父代わりでもあった。
「大蔵、おぬしはなかなか剣筋が良いが、水戸には文武不岐という言葉があって、すなわち学問と武術は不可分なものと考えられている。学問もおろそかにしてはならんぞ」
まるで真綿が水を吸うように次々と剣技を体得してゆくこの少年に、金子は目を細めた。
彼は少年の才を愛し、尊王の気風を学ばせることも怠らなかった。
旺盛な知識欲を持つ大蔵にとって、いわゆる水戸学の教えは新鮮な刺激に満ちていた。
尊王論を体系的に学べたことは、むしろ剣技の習得よりも大きな収穫にさえ思えた。
そして彼は、この地で初めて歳の近い友人を得た。
「くそ。今日も面をとられた。どうやったらそんなに速く竹刀を振れるんだ」
悔しそうに面紐を解いたのは、水戸藩士の嫡男・森山繁之介である。
「速さはきみと変わらない。きみは予備動作が大きすぎるから、先を読まれるんだ」
「大蔵は理屈屋だなあ」
繁之介は、この新参の少年が一目で好きになった。
鈴木大蔵は、目を奪われるほどの美少年ながら、その実剣の才に長け、目から鼻へ抜けるような秀才だった。
同門で同い年の繁之介は、愚直な自分にはない何かを、大蔵に感じていた。
対する大蔵もまた、繁之介を、同世代で対等に渡り合える数少ない好敵手とみなしていた。
そしてもうひとり。
「おい、新入り。ずいぶん先生に気に入られてるじゃないか」
稽古の合間、そう言って大蔵の肩を小突いたのは、新家粂太郎だ。
小柄だが、負けん気の強さがその目に宿っている。
「そうかな」
「見え透いた謙遜はよせよ。…俺はひとつばかり歳は下だが、この道場では先輩だ。立ち合いでは負けないからな!」
口は悪いが、何かと大蔵の周りをウロチョロとついて回る人懐っこい弟分だった。
「覚悟しておくよ」
大蔵は目を細めて微笑んだ。
いずれにせよ、ほんの数ヶ月前に比べて、何もかもが順調に滑り出したかに思われた。
弘化四年七月二日。
「たまには気晴らしに遊びにいかないか」
立合い稽古が終わった後、汗を拭いながら繁之介が大蔵を誘った。
「遊びに?」
大蔵はキョトンとして問い返した。
「だってさ、おまえ内弟子だろ?毎日、道場と、郷校、それに屋敷への路を行き来するだけなんじゃうないか?」
「ううん…まあ」
するとそこに、粂太郎も割って入ってきた。
「それじゃ水戸へ来てから、外の景色をろくに見ていないんじゃないか」
道場は城下の外れにあって、まだ大蔵は町の中心部に足を踏み入れたことがなかった。
「水戸は学問の都なんて言われてるけど、なんたって御三家のお膝元だからさ。城下町なんて、こう、武家屋敷がズラーっと並んでさ。言っちゃなんだが、8000石の志筑藩とは訳がちがう」
「ふうん」
大蔵は、易々と繁之介の挑発には乗ってこない。
粂太郎が、その提案をさらに後押しする。
「なあ、行こうぜえ?竹隈町って花街もあるんだよ」
「バカ!留学に来た者を、そんなところに連れていけるかよ!」
繁之介は、粂太郎の頭を軽くげんこつを入れて、それから大蔵に向き直った。
「とにかく、どこか行きたいところはないか?」
「そうだなあ」
大蔵は、はだけていた上半身に胴着の襟を引っ張りあげながら少し考えた。
「弘道館を見てみたい」
水戸藩の弘道館は、名にし負う最高学府だ。
「お、おう!中に入れてもらえるかどうかは分かんないけど、外からなら見れるんじゃないかな」
建物は城の三の丸にあって、外堀の塀越しに眺めることしか出来なかったが、繁之介はそのことには触れずにおいた。
「よしきまりだ」
道場を出ようとする少年たちに、年長の門弟が声を掛けてきた。
野口哲太郎。
金子道場でも指折りの使い手であり、大蔵たちにとっては頼れる兄貴分だ。
「森山、大蔵にあまり悪い遊びを教えるなよ?」
「分かってますよ!」
「それから、街で下村さんに会ったらくれぐれも気をつけろ」
「あ、はい」
繁之介と粂太郎の顔が、わずかに強張るのを見て、大蔵は訝った。
「下村…誰です?」
野口は大蔵の耳元で声を低めた。
「ああ。悪い人じゃないが、とにかく城下じゃ有名な悪童でな。芹沢の三男坊には手を出すなと、俺たちも兄弟子達から何度も聞かされたもんさ。お前もあまり深くかかわらんことだ」
大蔵はたずねた。
「でも、その男に会ったことがないわたしはどうすればいいんですか?」
「一目でわかるさ。300匁もある鉄扇を持ち歩いてる奴は、他にいない」
「ったく、小うるさい先輩だよ」
粂太郎が笑いながら二人を先導する。
「バカ!野口さんを悪く言うな」
大蔵には分かっていた。
彼らは、故郷を遠く離れて暮らす自分を思いやり、外の世界を見せようとしてくれているのだ。
蝉の声に急かされるように、三人の少年は夏の日差しの中へと駆け出していった。




