表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/23

品川砲台

琴にとって、芸事げいごと修養しゅうようは苦痛以外の何ものでもなかった。

上総屋かずさやに足を踏み入れた当初、琴はいきなり客を取らされるのではないかと身構えていたが、遊郭ゆうかくというところは、琴の想像を超えて複雑怪奇ふくざつかいきだった。

書道に、お茶や、三味線しゃみせん…いったいこんなものと色事いろごとになんの関係があるのか、琴には理解できなかった。

もっとも、素養そようはともかく、武家ぶけの娘として多少芸事のたしなみがあった彼女は、一緒に来た亀より何ごともそつなくこなせたので、楼主からは「すじがいい」と評されていた。


近江屋三八おうみやさんぱちが彼女達を残して上総屋かずさやを去った後、遣り手(やりて)の梅は吐き捨てたものだ。

「あんた達を連れてきたあの女衒ぜげん、ひとむかし前はちょっとした顔役かおやくだったんだけどねえ。近ごろは左前で、たまぁに連れて来んのはろくでもないアバズレか、垢抜あかぬけない田舎娘いなかむすめばっか。あんたは久々のアタリだってんで、ずいぶん吹っかけられたんだ。ちゃんと元はとんなよ」

琴としては、すぐにでもここを逃げ出したかったが、母に迷惑めいわくをかけるわけにはいかないと考え直した。


しかし、琴や亀の予想に反して、二人はついぞ粗雑そざつに扱われることはなかった。


上総屋かずさや主人、文次郎は徹頭徹尾てっとうてつび守銭奴しゅせんどではあったが、なにより商売というものを心得ており、金の卵である琴や亀への投資とうしを惜しまなかった。

あるとき、梅の小言が琴の腑に落ちた。

吉原遊郭ここは品川の旅籠はたごとはちがうんだ。金を稼ぐには、身体を売るだけが能の飯盛り女と一緒じゃダメなんだよ」

どうやら彼女は、花柳かりゅう生業なりわいとするうえで、琴や亀が前にいた世界とは全く別の行動規範こうどうきはんを持っているようだった。

すべてが算盤そろばんずくで、ズケズケと率直な物言いをするこの遣り手(やりて)婆を、琴はなぜか嫌いになれなかった。


とはいえ、連日の「お稽古けいこ」には閉口へいこうさせられた。

元来、彼女は女らしい所作しょさというものに興味がなく、大蔵おおくら村塾そんじゅくに通っている間もひとりで剣を振るっていることの方が性に合っていた。

そうなったのには理由がある。



琴が幼少の頃。

父鈴木専右衛門せんえもんは、どういう思惑おもわくがあってか、ひまをみては彼女に剣術の稽古けいこをつけた。

それは家格というものを割り引いても異例のことで、無論むろん、親族や母はいい顔をしなかったが、えて家長かちょうのやることに口を差しはさむ者もなかった。


とにかく、何かのきっかけで、父は娘の非凡ひぼんな才能に気付いたに違いなかった。


あるいは、病気がちな嫡男ちゃくなん大蔵おおくらの成人を危ぶんでいるのかもしれないと、家人達はうわさしあった。

実際、次男の多聞たもんが産まれたときの喜びようはひとかたではなかったし、多聞たもんが数えで五つを越えた頃からは、琴に剣術を教えることもなくなった。


「父上は、わたしが死んだら琴に跡目あとめを継がせるつもりだったのさ」

大蔵おおくらは冗談めかして、よくそう口にした。


姿かたちがそっくりな娘を嫡男ちゃくなんの身代わりに立てる。

あまりに突飛な発想だが、鈴木専右衛門すずきせんえもんというのは、そういうことを考えかねない男だった。

しかし父の思惑おもわくがどうあれ、琴はその後もひとりで剣を振い続けた。



「たけじ、遊んでないで出かける支度したくしな」

三味線しゃみせん格闘かくとうしていた琴の頭を、うめが叩いた。

「たけじ」というのは琴の禿名かむろなで、もうひとりの亀は「いそじ」と名付けられた。

桃割ももわれに結い上げた髪を直しながら、琴は立ち上がる。

禿かむろと呼ばれる琴のような見習いは、このような雑務ざつむが日々の仕事だ。


「松屋さんですか」

琴は待合辻まちあいのつじにある引手茶屋ひきてぢゃやへのお使いだと思った。

というのも、上総屋かずさやには瀬川せがわという売り出し中の新造しんぞうがいて、いずれ売れっ子の花魁おいらんになるだろうと皆がうわさしていたが、彼女は化粧に時間をかけ過ぎるという悪癖あくへきがあった。

そんなわけで、待たせている客を代わりに迎えに行くのが琴の役目だった。


「今日は違うよ。はいこれ、持ちな」

うめは大きな江戸友禅えどゆうぜん風呂敷ふろしき包みを琴にぐいと押し付けた。


琴は包みの中身が何か聞かなかった。

「ついてきな」

うめもそれ以上は説明しようとしない。

自身も大きな荷物をかつぎながら、吉原大門の方へ歩いていく。

そのまま、二人は外に出てしまった。


本来、琴たち禿かむろは吉原遊郭の外に出ることは許されない。

彼女らは将来の花魁おいらん予備軍であり、同時に遊女の身の回りを世話する店の大切な商品だからだ。

しかし、抱え主の家族が外出する際など、例外的にお供として連れて行かれることがあった。


それから一刻半いっときはんものあいだ、うめは黙々と歩き続け、琴もその後ろに従った。

入谷、上野、御徒町と過ぎて、日本橋まで出ると、

そこから東海道を下って、例の品川宿に着いた。


目黒川まで来ると、うめは琴の荷物を引っ手繰たくり、

「ここで待ってな。間違っても逃げようなんて変な気を起こすんじゃないよ」

と釘を刺して、品川屋という看板を掲げた旅籠はたごに入っていった。


うめは小一時間経っても旅籠はたごを出てくる気配はなく、琴は目黒川にかかる橋の親柱に寄りかかり、ひまを持て余して海の方を眺めていた。


目黒川の河口は品川浦と呼ばれていて、

浜辺には、木綿の着物のすそをたくし上げて、潮干狩しおひがりをする女達の姿も見える。


少しくらいならいいだろう。

琴は海の方に歩いていくと、波除けの石垣に腰掛けた。

脚をぶらつかせながら、きらきらと海面に映る陽光や、次々と移ろう波形を目で追っていると、男が一人、背後から近づいてきて隣に立った。


琴は気にする風もなく波を見続けている。

男が手にしたキセルの煙とその香りが、彼女の髪をでた。


「風が気持ちいいな」

琴が返事をすることはなかった。

「品川はどっちだろ?」

男は海の方を見ながら、かまわず話し続けた。

「いやね。私は最近江戸に出てきたばかりで」

琴ははじめて男の顔を見上げた。

そこにいたのは、鼻筋はなすじが通り、鋭い眼をした若い武士だった。

「お台場を見に来たんだよ」

琴は男の顔をまじまじながめながら、それでも黙っていた。

どこか酷薄こくはくな感じのするその男は、琴と目を合わせたが、特に返事を期待している風でもない。

「お上が今年になって、急にそんなものを造り始めたっていうからさ。江戸に来て、それを見ない手はあるまいとね」

琴は姿勢を戻すと、沖の方を指差した。

「あれじゃないですか」

「…なるほど。あれかなあ。ここからじゃよくわからんな」

彼女は立ち上がると再び男に向き直った。

「そうですか」

それだけ告げて、その場を立ち去ろうとすると、

「変だよなあ?」

男は引き止めるかのように、今度は少し大きな声をあげた。

「なんで今なのかなあ?どうして、そんなもんが必要になったんだろう」

「…さあ」

一度宙空(ちゅうくう)に視線をやって、琴がまた歩き出そうとすると、その青年は行く手に回りこみ、ぐっと顔を近づけた。

そしてゆっくりけむりを吐くと、秘め事を話すように声を落とした。

「昨年浦賀にメリケンの船が使節を乗っけて来たと聞いた。ビットルとかいう。…あれと何か関係があるのかな」

彼は眼を細め、口の端を少しだけ上げて笑ってみせた。

その態度は、あきらかに琴を見くびっていた。


幼い禿かむろになら聞かせても解るまいとたかくくって、本来口にすべきでない事を話しているのだと琴は直感的にさとった。


「たけじ!帰るよ!」

背後から梅の呼ぶ声が聴こえた。


琴は青年を冷ややかに押しのけて、

「黒船に向けて撃つために造るんでしょ。大砲なんて、他に使い道がある?」

そう捨て台詞ぜりふを残すと、うめの方へ歩いて行った。


以来、この不可解なうめとの外出は月に一度の恒例となり、

琴にとって、唯一の息抜きになった。


うめを待つあいだ、彼女はいつも海岸まで出て、飽きることなく波音を聴いていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ