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魔窟

老人と少女が二人。

連れ立って水戸街道まで出ると、数日前、大蔵が辿った道とは反対に進む。


その日は歩きとおして、三人は荒川沖宿で最初の宿をとった。

近江屋三八おうみやさんぱちは、荷ほどきする鈴木琴の顔を探るような眼でのぞき込んだ。

「お琴ちゃんは、変わってるねえ。全然涙を見せないし、かと言って、あれやこれや、あたしに聞くこともしない。普通は、そのどっちかなんだが…」

「じゃあ教えてください。お爺さんは、何者なの」


もう一人の娘、亀が、少しおどろいて琴を振り返った。

桜井家を出てからここまで、一言も口をかなかった彼女が最初に発した言葉だった。


三八さんぱちはそれを、自分の素性すじょうただされたものと受け取った。

「説明するのは難しいが、あたしゃまあ言ってみりゃ、そう、口入屋くちいれやみたいなもんかね。だが、あんたみたいに淡々(たんたん)親御おやごさんに別れを告げる娘さんは初めてみたよ。いや、さすが、お武家ぶけの…」

「私たち、何処どこに向かっているんでしょうか」

三八さんぱちのお追従ついしょうさえぎり、琴は質問を重ねた。

「お江戸だよ。行った事あるかい?きっとビックリするぜ」

琴のつっけんどんな物言いに多少鼻白みながらも、三八さんぱちはなんとか笑顔を繕った。


志筑しづくを出て四日目の朝。

一行が差し掛かったのは、江戸の玄関口、東海道第一番目の宿場、品川宿だった。

広重ひろしげの「東海道五十三次」にも描かれた景勝地けいしょうちである。

左手に広がる品川沖には、江戸の胃袋を支える大型の輸送船「弁財船べんざいせん」や木更津船が白帆しらほを連ねて行き来し、遠くかす房総ぼうそうの山々が海面に浮かんで見えた。

大名や旗本が泊まる本陣の威容いよう、そしてその周囲には、旅人の足を止める大きな飯盛旅籠めしもりはたごが軒を連ねている。


街道には、伊勢や金毘羅参こんぴらまいりなど西国の寺社にもうでる旅行客や国許と江戸を行き来する侍の他にも、品川湊の商人や、荷物を運ぶ歩行役かちやく、増上寺の僧侶など、様々な階層の人々が行き交っていた。

「どうだい。たいしたもんだろ?」

三八さんぱちのあとを付いて歩く娘たちは、初めて目にする景色や人波に圧倒されていた。

しかし、目黒川に架かる小橋を渡ると、程なく町の景色は、まったく別の様相ようそうていしはじめる。

そこには染み付いた安酒の臭いと、白粉おしろいの甘ったるい香りがよどんでおり、世間知らずの少女たちでも、ここが不浄ふじょうな場所であることが分かった。

品川の旅籠はたごは「飯盛女めしもりおんな」という名目で事実上の遊女を置くことを黙認されており、その繁栄ぶりは「北の吉原、南の品川」と並び称されるほど、毒々しい輝きを放っていた。


「なんだか怖い……」

亀が思わず呟くと、近江屋三八は意味深な笑みを浮かべた。

「なに、すぐ慣れるさ」


しかしその意味は、ほどなく知れた。


品川の喧騒けんそうを後にし、一行が最後にたどり着いたのは、浅草の北外れ、広大な田畑の中に突如として現れる不夜城ふやじょう吉原遊郭よしわらゆうかくだった。

かつて湿地帯であったこの地は、四方を「お歯黒はぐろドブ」と呼ばれる深い堀に囲われ、外界とは一線を画している。

日本堤を歩く二人の目には、遠く隅田川の向こうに筑波の山影が沈み、手前には江戸中からぜいを尽くした遊び客を運ぶ「猪牙ちょき船」が、山谷堀の細い水路を滑るように進む様が見える。


日本堤にほんづつみを下り、幾重いくえにも折れ曲がった五十間道ごじゅっけんどうを抜けると、唯一の出入り口である「大門おおもん」が二人を迎え入れた。

そこは欲望と情緒が渦巻く桃源郷シャングリラの入り口。


「さあ、着いたよ」


街道沿いの賑やかさとは打って変わり、門内へ一歩踏み込むと、そこには別世界が広がっていた。

大門から真っ直ぐに伸びる仲の町(なかのちょう)通りには、店の屋号が染め抜かれた大きな暖簾の掛かる二階建ての引手茶屋ひきてぢゃやがずらりと並んでいる。

軒先にはそれぞれ店名の入った提灯ちょうちんがいくつも吊り下げられており、通りは昼間のような光に彩られていた。


「こっちだ」

いざなわれるまま角を曲がれば、江戸町一丁目。

そこには江戸随一の美を競い合う妓楼ぎろうが軒を連ね、それぞれの屋号やごうかかげた高張提灯たかはりちょうちんが、往来おうらいする人々や遊女たちの華やかな着物の文様もんようを浮かび上がらせている。


幕府公認の遊郭ゆうかくである吉原は、品川のような宿場町が勢いを増すなかでも、依然としてその威厳と格式を損なうことのない聖域である。

しかし、絢爛豪華けんらんごうか楼閣ろうかくの威容に圧倒されながらも、二人の娘は昼間に見た品川宿と同じ怪しげな匂いを敏感に嗅ぎ取っていた。


なるほど。伯母の言っていた「奉公」とはこういうことか。

琴は母の涙の訳を悟りつつ、なぜか醒めた気分で三八の後に続いた。

亀は、このことを聞かされていたのだろうか。


「こっちこっち。裏に回んな」

しかしそこから路地に入ると、大通りとは対照的な、湿り気を帯びた薄暗い裏通りに出る。

三人はその一画にある、重々しい格子のまった勝手口へと辿り着いた。


今まで歩いてきた「仲の町」の華やぎがこの町の表の顔であるとするなら、三人が今まさに足を踏み入れようとしているのは、影のよどあやしい裏の顔であった。


妓楼ぎろう上総屋かずさや」。

出迎えたのは、主人の文次郎と、その傍らで鋭い視線を光らせる遣手やりてのうめである。


文次郎は近江屋三八おうみやさんぱちの顔を見るなり、鼻を鳴らして冷たく言い放った。

「またあんたかい。しつこいねえ。うちは間に合ってるよ」

うめもまた、手でハエを追うような仕草で玄関払いを食わせる。

「ああ。女なら掃いて捨てるほどいるからね」

しかし、三八はみ手をしながら食い下がった。

「旦那、そうおっしゃらずに。昔のよしみじゃないですか。まあ、だまされたと思って見てくださいよ。あっしもこの商売は長いが、今度の二人は、滅多にお目にかかれない上玉じょうだま……いや、本物の『マブ』でさあ」

「どれ、見せてみな」

うめの手振りで、三八が背後に隠れていた二人を前へ促した。


おずおずと差し出された琴と亀を一瞥した瞬間、文次郎の目が、値踏みする商人のそれへと変わった。

遣手のうめが、琴のあごを指先でクイと持ち上げ、その顔立ちを冷徹に吟味する。

「…ふうん」

ほんの一瞬、文次郎の口角が吊り上がったのを琴は見逃さなかった。

獲物を見つけた獣の笑みだ。


「いいだろう。うめ、案内してやんな」

主人の鶴のひと声に応じ、遣り手(やりて)のうめが三人に人差し指をくいと曲げて合図した。

「入んな」

三人は奥へと通されたが、琴と亀は板敷きの冷たい土間に立たされたまま。

三八と文次郎、そしてうめの三人は、障子しょうじ一枚(へだ)てた奥の座敷で、声を潜めて話し始めた。

所在なげな亀が、すがるような視線を琴に送ってくる。

その震える小さな手に指をからめ、琴は自分たちの置かれた状況を短く、静かに告げた。

「どうやら値交渉中みたいね」


そこは、若く無垢むくな娘たちと、江戸中の欲望を飲み込む巨大な魔窟まくつであった。




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