別離
翌朝早く、大蔵は桜井家の下男と連れ立って、小桜村川俣を出て行った。
ここ数年、水戸領には侠客くずれのごろつきや、野盗の類が増えたという話が伝わっている。
心配する家族をよそに、鈴木大蔵は涼しい顔をして、水戸街道の稲吉宿からは一人で行くと言って聞かなかった。
しかし結局、心配する祖母や母に押し切られる形で、水戸沢小路にある道場まで、この下男が同行することになった。
その朝、母の眼は赤く泣きはらしていた。
それが大蔵のことを想ってか、
琴の不憫を嘆いてなのか、
その両方なのか、琴には分からなかった。
琴は母の隣で大蔵を見送り、ただ短い言葉を交わした。
大蔵には奉公の話は明かしていない。
「頼んだよ」
その一言に込められた様々な思いに、琴は返す言葉が見つからなかった。
そしてただ、黙って大蔵にうなずいた。
水戸街道と日光街道に向かう道が分かれる三叉路に差し掛かった時、大蔵は使用人の勝蔵に声をかけた。
「ちょっと、ここで待ってて」
「へえ」
勝蔵が歩みを止めると、大蔵は三叉路の又にある小さな社の鳥居をくぐり、境内に駆けていった。
大蔵はそのまま無造作にお社の扉を開け放つと、床の片隅の羽目板を引き剥がした。
そこには、まだ少年の大蔵には不釣り合いな、長刀が隠してあった。
大蔵は、満足げにそれを腰に帯びると、宝物を守ってくれた御神体に手を合わせ、扉を閉めた。
その時、大蔵は、此処が筑波山神社の分社である事を思い出した。
何年か前、まだ郷目付だった頃の父と、琴、三人で筑波山に登った時の事だ。
拝殿の前に立って、父、専右衛門は言った。
「あれが男体山、あっちが女体山。それぞれイザナギの命とイザナミの命が祀られてる。一緒に生まれた、国産みの神様だ。なんだか、お前たちのようだな」
父の言葉に深い意味など無かったのかも知れないが、あの言葉が今でも耳から離れない。
この刀は、当時住んでいた屋敷から持ち出せた唯一の財産だった。
もっとも、無銘のこの刀に如何ほどの値打ちがあるのか、大蔵は知らない。
しかし、美しいものに執着する大蔵にとって、その刀身の艶かしい光は、今まで目にしたどんな大業物よりも魅力的に映った。
私財を切り売りしながら生活費を工面していた頃も、これだけは手放すつもりはなかった。
それが、残された幼い当主が出した結論だった。
大蔵は駆け戻ってくると、勝蔵の肩をポンと叩いた。
「行こうか」
近江屋三八は、抜け目のない眼つきで、ためつすがめつ琴の周りを一周した。
「ちょこっと線は細いが、お嬢ちゃん、様子はいいし、きっとお店でも可愛がって貰えるよ」
この近江屋がその店の主本人だと思っていた琴は、先の言葉を訝しんだが、口にはしなかった。
大蔵が旅立ってから三日と置かずに、このいかがわしい老人がまた現れた時、
母の顔から血の気が引くのを見て、琴はこの取引の意味を半ば理解していた。
本当の事情を知っているのは、伯母と、母だけのようだった。
門前に立った近江屋三八の後ろには、琴の予感を裏付けるように、自分と同じか、少し年下の少女が一人、佇んでいた。
もはや、伯母がクドクドと耳元で因果を含める声も、琴の頭には入ってこなかった。
琴の脳裏には、数年前、父や大蔵と筑波山神社に参った帰り道の情景があった。
「志津~、志津~!」
男に手を引かれる少女と、それを追いすがって少女の名前を叫ぶ女。
少女は、大蔵が通う村塾の学友の妹だった。
少女に駆け寄ろうとする大蔵を、父の大きな手が遮った-
「母上、泣かないで。大丈夫だから」
琴はそう言って、訳もわからずオロオロする弟多聞の頭を数回撫でた。
品川宿で遊んだ客は、「侍」と、にんべんがない「寺」、つまり「僧侶」のこと。幕末の記録によると、芝増上寺の僧と、三田に藩邸のあった薩摩藩士が客の大半だったという。




