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志筑

三年後。


弘化4年(1847)、初夏。


鈴木琴は、庭先に天日(てんぴ)干ししている布団(ふとん)を、気のない様子でパタパタと叩いていた。


申し訳程度にその庭を仕切るサツキの垣根(かきね)越しに、薄汚(うすぎたな)い身なりの老人が先ほどから家人と何やら話し込んでいるのが見える。

二人はこちらに背を向けてヒソヒソと小声で話しながら、ときおり伏し目がちに琴の方を振り返った。


琴は、二人の視線に気づいていない風を装い、正面に見える筑波山(つくばさん)を、やはり気のない様子でぼんやり眺(なが)めていたが、やおら手に持っていた木刀をビュッと背後に向けて薙ぎ払った。


「うわっ…」

彼女の後ろで短い叫び声がして、頭をかばうように両手を交差させた少年が飛び退いた。

「ちょっと!危ないだろ」

少年は、切れ長の涼やかな眼を見開き、その美しい顔を紅潮(こうちょう)させている。


「これ」

琴は、手にした木刀を少年の鼻先(はなさき)にヌッと突きつけると、

「持ってかなくていいの?」

と無愛想(ぶあいそう)な調子で訊(たず)ねた。

「そんなの向こうで借りるさ。宮本武蔵じゃあるまいし、別に山篭(やまごも)りに行くわけじゃないんだ」

まだ前髪(まえがみ)もとれていない少年は、小馬鹿(こばか)にしたように鼻を鳴らすと親指で背後を指した。

「そんなことより。さっきからあそこで桜井の伯母上(おばうえ)と話しこんでる爺さん。あれ誰?」

「さあね。どっちにしても、あなたには関係ない。用があるのはわたしみたい」

「琴に、なんの用さ?」

「知らない」

琴は、素(そ)っ気(け)なく応えて、しばらく間を置くと、急に思い出したように続けた。

「それより、明日水戸に発つんでしょ?仕度(したく)は済んだの?」


玄関(げんかん)の方に向き直って肩を並べた二人の姿は、背格好(せかっこう)から顔立ちまで、全てが瓜(うり)ふたつだった。


「仕度(したく)ったって!志筑(しづく)の家から持ち出したものは、あらかた売っちゃったろ?身体ひとつあれば充分さ」

自分に言い聞かせるように、そう言って形の良い口元を引き結んだ弟の横顔を、琴はしばらく黙って見つめていた。

彼女は、やがて眼をそらして小さくつぶやいた。

「ごめんね。大蔵(おおくら)…」



その日、夕餉(ゆうげ)の席で、二人の伯母(おば)は、いつになく上機嫌(じょうきげん)だった。


食膳(しょくぜん)には、最近では珍しく一汁三菜(いちじゅうさんさい)が並び、この晩餐(ばんさん)が特別なものであることを窺(うかが)わせた。

琴や大蔵(おおくら)の弟、まだ小さい多聞は、久しぶりのご馳走(ちそう)を無邪気に喜んでいる。


伯母は大蔵の前に膝をつき、その両手をとって噛んで含めるように言った。

「大蔵(おおくら)さん、いよいよ明日ねえ?水戸に行ったらがんばって下さいよ。くれぐれも鈴木家の名誉に泥を塗るような行いは慎(つつし)みなさいましな」

「はい」

大蔵(おおくら)は、蚊(か)の鳴くような声で応(こた)えた。

大蔵ら親子は、母方の実家である桜井家の居候(いそうろう)だ。

少年とは言え、聡明(そうめい)な彼には分かっていた。

伯母の激励(げきれい)は、食卓を囲む祖母や、家長である桜井四郎左衛門(さくらいしろうえもん)に聞かせるための遠回しなご機嫌取(きげんと)りだ。


「これ!ハキハキと喋りなさい」

大蔵(おおくら)の隣に座っていた母コヨが、上座(かみざ)に居並ぶ人々に対して申し訳なさそうに大蔵(おおくら)をたしなめた。


「精一杯励(せいいっぱいはげ)みます」

今度はもう少し大きな声で大蔵(おおくら)は応(こた)えた。


琴は末席(まっせき)で黙々と箸(はし)を運びながら、その様子を横目で眺(なが)めていた。


「遊学(ゆうがく)なんて言っても、体(てい)のいい口減(くちべら)らしさ」

大蔵(おおくら)は、琴にだけ判る口の動きだけで毒づいた。

双子の姉弟は、昔から些細な仕草(しぐさ)でお互いの気持ちを伝えあうことが出来た。

琴はウンザリしたような目配(めくば)せを返した。

皮肉屋の弟が言いたいことは分かる。

そもそも父専右衛門(せんえもん)が逐電(ちくでん)してのち、鈴木家に守るべき名誉など、もう残っていない。



「ご馳走様(ちそうさま)でした」

琴が席を立とうとすると、「ちょっと待って」と伯母(おば)が引き留めた。


「わたしですか?」

伯母(おば)から滅多(めった)に声をかけられる事のない琴は少し驚(おどろ)いた。

「そうよ。実はねえ、あなたにもお話があるのよ?そうねえ…やっぱりここではなんだから」

そう言って、伯母(おば)は自分の膳(ぜん)を下げると、先に立って台所の方へ歩き始めた。

「ちょっと。ちょっと、こっち」

「はい」

膳(ぜん)を抱えたまま伯母(おば)の後ろ姿を追いながら、琴は母の悲しげな横顔に気づいた。



伯母(おば)は台所に入ると、飯炊(めした)き女とだべっていた下男(げなん)を追い出して、

「ほら!あんたもさっさと洗い物片づけて」

と女を怒鳴(どな)りつけた。

「まったくねえ。いったいどこで仕入れてくるんだか、利根川でヤクザの大乱闘があって何人死んだの、浦賀に着いた船から異人(いじん)が降りてきてお上と密約を結んだの、そういう与太話ばっかり家のもんに吹き込むんだよ。あの勝蔵(かつぞう)には困ったもんでねえ」

と、ぎこちない笑顔を作った。

この伯母(おば)が何となく自分のことを持て余しているのは、琴も薄々勘づいている。

竃(へっつい)に後ろ手をついて立つ伯母(おば)は、話をどう切り出せばよいか、まだ悩んでいるようだった。

「伯母(おば)上?」

琴は、遠慮(えんりょ)がちに促(うなが)した。

「大蔵(おおくら)さん。本当に一人で大丈夫かしらねえ」

はぐらかすように伯母(おば)がこたえた。


「大蔵(おおくら)は、ええ。大丈夫だと思います。伯母(おば)上、話って、今日来ていたあの商人と関係のあることじゃないですか」

遠回しな物言いに焦れて、琴は踏(ふ)み込んだ。

「ああ、ええ、近江屋さん。あの方、ああ見えて少し前までは結構な大店(おおだな)のご主人だったそうよ。今じゃ、あんなだけどねえ。ええ」

「私、奉公(ほうこう)に出るんですか?」

琴には、昼間の二人の様子からおおよその筋書(すじが)きは見当がついていた。

「あら」


伯母(おば)は、妙に大人(おとな)びたこの娘を内心少し気味悪(きみわる)く思っていた節(ふし)もあったが、この時ばかりは彼女の利発(りはつ)さに救われたという顔をした。


「脱藩(だっぱん)したとはいえ、表御礼衆(おもておれいしゅう)(藩主の江戸参勤に随行する家格)の郷目付(ごうめつけ)までお勤めになった、れっきとした武家の娘を奉公(ほうこう)に出すなんてねぇ、私も悩んだんだけど、コヨもね、しょうがないって言ってくれたのよ?」

「母上が…」


父が蟄居(ちっきょ)を申し渡され、自分たち家族をおいて失踪(しっそう)して以来、

志筑(しづく)の家を追われるまでの間、母コヨがどれだけ金策(きんさく)に苦労してきたか、

琴は、間近(まぢか)でいやと言うほど見知っていた。

双子の弟大蔵(おおくら)が「遊学(ゆうがく)」を建前(たてまえ)に厄介(やっかい)払(やっかいばら)いされたのも同じ理由だろう。


「そうですか。わかりました」

琴は、それ以上なにも聞かず、あっさりと申し出を受け入れた。




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