決闘
天保十五年(1844)八月六日。未明。
利根川下流の町、下総国海上郡、笹川。
川面に薄い霧のかかる利根川を三艘の小舟がゆっくりと下ってくる。
それぞれ漕ぎ手の他、物云わぬ2、3人の男が身を潜めるように乗り込んでおり、
やがて葦の茂みに囲まれた川岸に漕ぎよせた。
岸には、示し合わせたように股旅姿の若者が数名待ち受けており、
腰まで水に浸かりながら、やはり黙々と小舟を岸に引っ張り上げた。
五十がらみの太った男が最初に舟から降り立つと、ドスの利いた声で尋ねた。
「おう政吉…市の野郎の姿が見えねえが?」
股旅姿の男たちの中から、体格のいい若者が進み出て、おずおずと応えた。
「親分、座頭市の兄貴は来てません」
「野郎、怖気づきやがったか」
「それが、『目の見えねえオイラまで駆り出されたと世間様に知られちゃあ、後々、飯岡一家、引いては親分さんの名に傷がつくことになるでしょう』と…」
「ち、ふざけやがって!」
男たちの正体は侠客、つまりヤクザである。
親分と呼ばれたのは、石渡助五郎、通称、飯岡の助五郎。
近ごろでは関東八州の見廻り役人を案内する目明しとして十手を任され、陽の当たる表社会にも幅を利かせるようになった、下総国飯岡一帯を仕切る大立者だ。
「まあ、いい。こっちにゃ中沢先生がいらあ」
飯岡助五郎は、最後に岸へ揚がった若い武士を見やった。
中沢孫右衛門、いわゆるヤクザの用心棒である。
擦り切れた木綿の着物に、眼光だけが妙に鋭い。
「アテにしてるぜ?」
揶揄うように中沢の肩を叩いたのが、飯岡の右腕、洲崎政吉。
中沢と政吉は年も近く、一家の子分と食客という間柄を超えて信頼しあっている。
「ふん、都合のいいときばっか、持ち上げやがって」
中沢は毒づきながらも、油断なく周囲を見渡した。
政吉がその様子を訝った。
「どうした先生?」
「おかしいと思わないか。どうも、すんなり事が運びすぎだ。ここに来るまで、一度も笹川の子分どもを見かけなかった。こっちは、昨日、奴らの襲撃を受けてから時を置かず、夜を日に継いで乗り込んで来たというのに、だ。向こうがお礼参り(反撃)に備えていないなど、考えられん」
飯岡は、中沢の心配を一笑に付した。
「クックック、先生は、笹川繁蔵って男を知らねえ。心配しなさんな。古い付き合いの儂には、奴の考えが手に取るように分かるぜ?昨晩、儂に脅しをかけて、もう手を出せねえと高を括ってやがるのさ」
男たちは、河川敷の土手を密やかに這いあがり、目の前にある集落になだれ込んでいく。
村はまだ眠りについていて、集団は一番上手にある大きな屋敷の前で体勢を整えた。
「繁蔵の屋敷です」
政吉が小声で告げた。
笹川一家の屋敷も、まだ灯りが消えている。
助五郎の手振りで、集団は一斉に門へ踏み込むと、先陣を切る政吉が大音声で叫んだ。
「笹川繁蔵、上意だ!神妙にお縄を頂戴しやがれ!」
親分に続けと、勢い込む飯岡の子分たちを、中沢が手で制した。
「…まて、やはり何かおかしい」
政吉は中沢の耳元に囁いた。
「気にし過ぎじゃねえか」
その時、屋敷の影から二十人ほどの男たちが現れた。
勢力富五郎、山のような大男が先頭に立っている。
「ようこそ。飯岡の大親分」
奥から、長ドスを構えた若衆を引き連れた、中年男が姿を現した。
岩瀬繁蔵、通称笹川の繁蔵、利根川下流域の笹川村を根城に、最近急速に力をつけてきた新進気鋭の博徒だ。
繁蔵と勢力富五郎はいずれも元力士という経歴の持ち主で、なるほど大柄で引き締まった体格をしている。
洲崎の政吉が叫んだ。
「汚ねえぞ、笹川の!」
繁蔵は鼻で笑った。
「汚いだと?笑わせやがる。夜陰に乗じてコソコソ乗り込んできやがった奴の言い草とは思えねえな。てめえらの猿知恵なんぞ、こちとらお見通しだ」
飯岡助五郎は、挑発に乗らず、悠々と腰から十手を引き抜いて、チラつかせた。
「こいつが見えるかい、繁蔵?てめえにゃ、大田村三十五カ村寄場組合の申し出により、関東取締出役桑山圭助様から捕縛令が出ている。ことによると、もう銚子辺りまで逃げ仰せたかと気を揉んだが、お前さんが馬鹿で助かったぜ。探す手間が省けたってもんだ」
「せいぜい吠えるがいい、奉行所の犬が!」
挑発に乗って興奮する繁蔵の配下を押しのけ、
笹川一家の助っ人、平田深喜がのっそりと姿を現した。
「…おまえら、騒がしいな」
往時は天才的な剣士として名を馳せた剣客だが、長年の自堕落な生活が祟って肺を病み、今では自暴自棄になってヤクザの用心棒に身を堕としている。
そこには、様々な人間模様が交錯していた。
「お互い、言いたいことは言えたか?では、そろそろ始めようか」
平田は、自らの寿命を悟った人間特有の虚無的な笑みを浮かべて、飯岡の子分たちの群れへと、無造作に斬り込んでいった。
飯岡一家でも気の荒い、甚助、伊七、太兵衛がそれを迎え撃つ。
平田は、目にも止まらぬ速さで抜刀し、すれ違いざまに三人を斬り捨てた。
飯岡の子分たちは息を飲み、警戒して距離を取った。
「どうした?歯ごたえのない…ほら、次だ」
「拙者が、お相手しよう」
飯岡方の用心棒、中沢孫右衛門が、その行く手に立ちふさがった。
「ほほう。ひとりは骨のありそうな奴がいるな。見ねえ顔だが、あんたが座頭市の代役ってわけか。笹川の旦那、コイツは、俺がもらうぜ?」
平田深喜は、舌なめずりするように中沢を見つめながら、笹川繁蔵の許可を待った。
繁蔵は鷹揚に手を払う。
「好きにしな」
中沢は平田にひたひたと走り寄って、一合斬り結び、
素早く後方に飛び退いた。
奇妙な戦法に少し面食らった平田に対し、
今度は一瞬で間を詰めるように跳躍し、
刀を振り下ろす。
並みの剣客であれば、不意を突かれたところだが、
平田は反射的に刀の峰でその一撃を払った。
「…見たことのない剣法だ」
理で斬る北辰一刀流――。
気で叩き潰す神道無念流――。
格(あるいは品)で制する鏡新明智流――。
だが、これはそのどれとも違う。
その声にわずかな焦りが滲む。
中沢はニヤリと笑った。
「では、ご堪能あれ…」
が、言い終わらぬうちに平田が打ち返す。
「どうした?もう手詰まりか」
肺を病み、死を悟った男の剣は、鋭く、
正確で、迷いがなかった。
中沢の呼吸が、一瞬、乱れる。
「……一か八かだ」
次の瞬間――
中沢の身体が、宙を舞った。
ただの跳躍ではない。
利根法神流が得意とする、地形と間合いを喰らう跳躍。
斜め上から、刃が降ってくる。
「……あれは、利根法神流の!」
政吉が、思わず声を上げる。
平田は、咄嗟に身をのけぞらせた。
紙一重。
刃は、平田の肩口を浅くかすめ、血を弾いた。
「ちっ、浅い。仕損じたか!」
中沢が歯噛みする。
「もらった!」
平田が反撃に転じ、踏み込もうとした、その時。
視界を埋め尽くすように、飯岡一家の子分たちが殺到した。
「邪魔をするな!」
中沢の声も、届かない。
平田は、瞬時に悟った。
―ここまでか。
剣を振るう間もなく、十数本の刃が、平田の身体を刺し貫く。
平田は剣を握り締めたまま、泥の上に膝をつき――
静かに、崩れ落ちた。
絶命。
霧の中、
剣豪の最期は、あまりにもあっけなかった。
平田の最期を無言で見届けた繁蔵の口元からは、先ほどまでの不敵な笑みが消えていた。
「遊びは終わりだ」
冷酷に言い放つと、背後から火縄銃を持った数人の子分が姿を現した。
「鉄砲だ!」
飯岡側の誰かが叫ぶのと、火縄銃が火を噴いたのは同時だった。
繁蔵の部下は四方八方から集中砲火を浴びせ、
飯岡の周囲を固めていた子分たちは、バタバタと銃弾に倒れてゆく。
政吉が叫ぶ。
「利兵衛!金治!友蔵!」
そして中沢に向けられた銃口に気づいたとき、
政吉は迷わずその軌道に身を投げ出した。
「先生、危ねえ!」
鈍い衝撃とともに、政吉の背中が跳ねる。
「政吉……! なぜだ?」
駆け寄った中沢を、政吉は苦しい息の中で見上げた。
「先生とは腐れ縁だ。親分を守ってやってくれ」
二人の間には、用心棒と子分という立場を超えた、奇妙な友情があった。
「野郎!もう許さねえ!」
どちらの、誰が叫んだのかさえ分からなかった。
堰を切ったように大乱闘が始まり、
侠客たちは獣のごとく入り乱れて斬り結び、火花と鮮血を散らしながら屋敷の門をぶち破る。
殺戮の渦はとどまることを知らず、さらに広い場所を求めるように、広大な利根川の河原へと拡大していった。
霧の立ち込める湿った砂地。
視界を遮るものは、点在する葦の塊と川音だけだった。
河原は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
その、数刻のち。
利根川を、少し下った河原に、一人の盲いた老人が佇んでいた。
座頭市。
平田深喜と並び、後世に名を遺すその侠客は、見えるはずもない川面をじっと見つめていた。
「血の匂いがすらあ…まったく、愚かなことを」
市はボソリと呟き、杖を突きながら、静まり返った土手を登っていった。




