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余禄

その夜、二人は目黒の不動山ふどうやまで、山腹さんぷくの朽ちた茶屋の跡を風除けに、野宿することになった。


琴は焚火たきびに照らされる市の横顔に尋ねた。

「…見えてるの?」

「まさか」


琴は、足元に転がっていた小石を市に向けてほうった。

市は易々とそれを杖で弾き返す。

「うそ」

「ウソなもんか。それじゃあ面白いものを見せてあげよう」

市は、地面に転がっていた口の欠けた徳利とっくりを拾い上げると、

「そいつを置いてごらん」

と、琴の手に持たせた。

琴は息を殺し、音を立てぬよう市の目の前にある切り株にそれを据えた。


市が仕込み杖を構え、

ヒュッと一閃すると、

徳利とっくりは口の真ん中から真っ二つに裂けた。


「すごい…やっぱり、見えてるんでしょ?」

市は首を横に振る。

「目を閉じて、感覚を研ぎ澄ませてごらん。虫の声や、川の音、風がほおをなぶる感覚、草の匂い…感じるだろ?そうすれば、見えなくとも徳利とっくりの気配が分かるのさ」

徳利とっくりに気配なんてあるの?」

「ああ。何にだってある。あたしゃね、目が見えないからそれが判るのさ。徳利とっくりが考えてることだって分かるんだぜ?」

「うそ」

琴は、市が三人を斬り伏せる光景を目の当たりにしてさえ、彼自身を恐れることはなかったが、

いまは自分の胸の内を見透かされているような気がして、急にこの座頭に恐怖を覚えた。



翌朝。

「おじさん、雨が降るわ」

琴は跳ね起きて、市の手を引き、朽ちた茶屋の軒下にいざなった。

やがて、空からぽたぽたと雨粒が落ちてくる。

「いま、なんで雨が降ると分かった?」

「なぜって、雨が降る前って、空気が変わるじゃない」

「昨日のも、それとおなじことさ」


琴は急に雷に打たれたように理解した。


「それ、貸してみて」

琴は市の仕込み杖を引ったくると、

茶屋の廃屋はいおくから割れた徳利をひとつ拾ってきて、切り株のうえに注意深く据えた。


霧に濡れたままの切り株を背に、目を閉じる。

重心を落とし、肺の底から空気を吐き出す。


朝の霧を切り裂くような、一閃。  

 

徳利が、均等に断たれた。


「…こいつあ、驚いた」

市には、その成果が分かったようだ。


琴は肩で息をしながら、濡れた杖を見つめ、少しだけ笑った。

「わたしも驚いてる」


「老い先短いあたしが、最後にお前さんみたいな娘に出会えたのは、やはり宿命というやつなのかねえ」

市は、本格的に降り始めた雨の中、琴の頭に傘を載せた。


それから半年におよぶ流浪の中、

この老いた怪物の手によって、

少女の内に眠る剣才が研ぎ澄まされていくことになった。




そして半年が過ぎた。


会津、旅の終着点。

鶴ヶ城下を望む街道の端。  

空からは、綿帽子のような重い雪が舞い落ちている。


「お嬢ちゃん、此処ここでお別れだ」


背中を丸めた座頭市が、足を止めた。

その声は、半年前よりもどこか掠れ、深く濁っている

「いつまでもこんなヤクザもんと一緒に居ちゃいけない。家へお帰り」

「帰るとこなんてないわ…そんなの、おじさんが一番よく知ってるじゃない」

琴は雪の中に立ち尽くし、市の背中を見つめた。

半年間、その広い背中を追い、その杖の音を頼りに生きてきた。

今の琴には、握りしめた拳の「気配」だけで、市がどれほど衰弱しているかが痛いほど分かった。


「あるさ…ほら」


市は仕込み杖で、雪の向こうを指し示した。  

灰色の空から落ちる雪の向こう側に、一人の男が立っていた。

笠を深く被り、雪除けの合羽をまとったその立ち姿。  

――市は今市宿から中沢孫右衛門に文をやっていた。


「……さがしたんだぞ」

中沢の時間は、半年前、品川で琴を見失ったときから止まったままだった。


「どうやらあたしは、もうそんなに長くなさそうだ」

琴はまなじりを決して座頭市を振り返った。

「だったら、わたしが…!」

「勘弁しとくれよ。お前さんにしもの世話されんのなんてまっぴらさ」

「けど!こんなやり方は卑怯ひきょうよ!」

「いいからお聞き。お前さんには、まれにみる剣才がある。お父上に無念流の基本をしっかり叩き込まれ、あたしの抜刀術もすべて伝えた。だが、あの中沢というお方の利根法神流こそ、お前さんが出会うべき剣法だ」

「…法神流?」

「ああ。おまえさんは、この半年で、自分がどこまでいけるのか知りたくなったはずさ」

「そ…」

市はその先を封じた。

「いや、言わなくていい。何を言っても、それはお前さんの本心じゃないからね。さあ、お行き」

そう言って、市は琴を突き放すように背を向けた。


雪を踏む、サクサクという規則正しい音が遠ざかっていく。



「あたしゃ、渡世から足を洗って故郷の会津に帰ろうと思う」



市はその二年後、嘉永二年(1849年)十一月に故郷会津で没している。



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