品川浦
鈴木琴は、品川浦の波除に腰掛け、凪いだ海を眺めていた。
そこは、千住とはまるで反対の方角だった。
早朝漁に出た船が、もう戻って来るのが見える。
「娘さん、よく会うね」
後ろから、聞き覚えのある声がした。
振り返ると、清河正明が微笑んでいる。
「お台場、工事は進んでるのかなぁ。やっぱりここからじゃわからんな」
額に手を翳して沖を見る清河は、どこか少し感じが変わっていた。
やはり、琴の返事を期待するでもなく、一人話し続ける。
「最近、鼻をへし折られてね」
「そうですか」
琴は答えた。
清河は、キセルを一服して、煙をひとつ吐いた。
「うん。ま、花街で腕を斬りおとされた奴がいるらしいから、鼻くらいどってことないんだが」
琴は、清河の顔を見て少し笑った。
「ほら。やっぱり、娘さんは美人になるだろうな」
「え?」
琴はめずらしく赤面して、顔を背けた。
「ここから、品川に並ぶ砲台が見える頃、娘さんは美しく成長していて、そして、この国はきっと天地が引っくり返るような大騒ぎになってる」
清河はまたキセルをくわえて、品川の方を見た。
「その時、私は…」
清河は少し考えた。
「私はともかく、せめて君達が、あのせまい鳥篭から自由に出られる世の中になってればいいなあ?」
天に向かって煙を吹かすと、清河は背後を振り返った。
「…なあ、あんたら。私に何か用があるなら、コソコソしてないで出てきたらどうだい?」
すると旅籠の影から、股旅姿の男がニ人、姿を現した。
「用があるのは、あんたじゃなくて、そこの小娘だ」
それは、飯岡からの刺客、八木音松、銚子次郎だった。
浅草寺近くの路地。
中沢は、刀を鞘に納めた。
目の前には、先ほどの男、花輪弁吉が斃れている。
「…悪いな。腕の骨とあばらが数本、折れてるはずだ」
「ク、割に合わん役目だ。…だが、まさか刺客が俺一人だなんて思ってねえよな?」
弁吉はそう言って気を失った。
中沢はハッとして後ろを振り返った。
「お琴!」
叫ぶと同時に千住宿の方へ走り出した。
「娘、おまえ、中沢孫右衛門の連れだな?」
侠客たちは、じりじりと琴に詰め寄った。
すると清河がひょいと割って入り、八木音松の胸板を突き飛ばした。
「おいおい、いたいけな少女にその口の利き方は感心しないぞ」
「なんだてめえ、引っ込んでろ」
抜刀の気配が立ち上った刹那、清河の腰が沈んだ。
手刀が鳩尾を打ち、手首を払う。
呼吸と力を同時に奪う、的確な一撃。
二人目は抜こうとした瞬間、足を踏み外したように崩れ落ちた。
清河がすれ違いざま、膝裏を正確に叩いたのだ。
「これ以上は、怪我じゃ済まん」
低く、穏やかな声だった。
侠客たちは互いに顔を見合わせると、這う這うの体で逃げていった。
清河は琴を振り返ると、ニヤリと笑った。
「その歳で、もう男を狂わせるとは、お嬢さんは将来有望だな」
「強いんですね。なぜ斬らなかったの?」
「斬るのに理由はいるが、斬らないのに理由は必要ないだろ。違うかい?」
琴は、胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じながら、小さく息を吸った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
清河は優雅にお辞儀をしてみせた。
二人はしばらく黙って海を眺めていたが、やがて琴が立ち上がった。
「もういかないと」
琴は着物の砂を払うと、清河の前に立った。
「みな気づいてないだけで、鳥篭の扉には、最初から鍵なんてかかってないのかも」
清河の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「なら、あとはもう飛ぶだけだな」
一刻ほどのち。
中沢孫右衛門はようやく、千住宿にたどり着いた。
だが、どこにも琴の姿はない。
胸に嫌な空白が広がる。
「…お琴」
名を呼べど、応えはなかった。
一方その頃、
琴は東海道を宛てもなく歩いていた。
そして、高輪の大木戸の手前までやってきて、木陰に座り込んだ。
さてどうするか。
高輪大木戸は、厳密にいえば関所ではないが、
すでに江戸の町に山谷の事件が知れ渡っていれば
下手人の人相風体も割れて、目に見えぬ捜索の網が張り巡らされているはずだ。
「娘さん、また妙なところで会うじゃないか。そんなところに座り込んで、なにをしてなさる」
足元の砂利を指先で弄びながら顔をあげると、あの座頭が立っている。
「おじさん…わたしが見えるの?」
「白粉と、高そうな鬢付け油の匂いでね。まさか、また足抜けをやらかしたのかい?」
「そんなとこ。山谷の一件、おじさんも聞いてたでしょ?これ以上、迷惑はかけられないから」
市は少し考え込んでから、諭すような口調で言った。
「といって、子供一人でこれからどうやっていくつもりだい」
「平気よ。いまどき、浮浪児なんて珍しくもないでしょ。とりあえず、江戸には居られないから、東海道沿いに歩いてみようと思って。おじさんは?」
「あたしも、そろそろ裏稼業は辛くなってきたんでね。しばらくは、按摩をやりながら、関東八州を気のむくまま旅でもして、故郷に帰ろうとね」
「なんだか、楽しそうね」
琴は笑った。
「このすぐ先は高輪の大木戸だ。悪いことは言わねえから…」
座頭市がもう一度説得を試みようとしたその時、ふたりに声を掛ける者があった。
「おう、待て、そこのお前。飯岡のところにいた座頭の市とかいう者ではないか」
黒羽二重の羽織に角袖の着流しに、大小二本差し。
羽織の裏に覗く、五三の桐。
いわゆる八州廻り、関東八州の管轄の境界を越えて捜査権を持つ役人である。
「これはこれは。桑山様、ご無沙汰しております」
「おぬし、助五郎と袂を別ったと聞いたが、そんな娘を連れて何処へ行く気だ?」
桑山という男は、その特権をいいことに、ヤクザ者から賂を得て私腹を肥やしているという、あまり評判の良くない役人だった。
「これは、あっしがお世話んなってた漁師の滝蔵という御仁の娘でしてね。お種と言うんでさ。口減らしに、利根の穴原にいる縁者に預けることになったんで、ご恩返しにあっしが届け役を買って出ましたんで。まったく、イヤな世の中だ。ねえ旦那?」
「本当か?」
桑山は、疑り深く琴の顔を覗き込む。
琴は無言で頷いて見せた。
「女手形は?」
「ええ、ええ。ございますとも」
座頭市はそう言って、桑山の袖に金を滑り込ませた。
「ふむ…、よかろう。しかし江戸町奉行の同心どもが、その娘に話を聴きたいと申しておる」
なんとかやり過ごせたと安心したのも束の間、二人組の同心が桑山の背後から現れた。
桑山はニヤリと笑って、同心に場所を譲った。
市は舌打ちした。
「どうやらもう、網を張られちまったようだね」
同心は琴を見下ろして言った。
「山谷で女衒の腕を斬り落とした女を捜している。信じがたいが、ちょうどお前くらいの年頃の娘だそうだ」
同心に腕を掴まれた琴は、その手を振りほどこうともがいた。
「旦那、盲いた年寄りから、手を引く娘を取り上げるつもりですかい」
同心は聴く耳を持たず、目敏く琴の服に着いた返り血を見つけた。
「この血はなんだ?」
「やれやれ…」
座頭市は、仕込み杖を目の高さに水平に構えた。
「おい、貴様!なにをす…」
桑山が刀の柄に手を掛ける間もなく、
座頭市は、抜き打ちに三人を斬り伏せた。
琴には何が起きたのか理解できず、ただ茫然と立ちつくすほかなかった。
市は桑山の袖から金を取り戻すと、街道脇の雑木林に三つの躯を引きずり込んだ。
「こうしておけば、今夜あたり野犬が来るだろう」
琴がびくりと肩を震わせる。
「殺さなくても…」
「生けるものは凡て、いずれ土に返る。輪廻なんてもんは、ヒトやイヌや虫どもが順番を守って席を譲り合ってるだけのことさ」
そう言って、茂みに向かって神妙に手を合わせた。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
それは清河正明から聞かされた死生観とは異なる理屈で、琴を混乱させた。
「…こうなっちゃ仕方ないねえ。あたしが間道を案内してあげよう」
市に手を取られて、琴はやっと我に返った。
「…止めないの?」
「言っても、おまえさん聴きゃしないだろう?」
市は先に立って、白金の方へ迂回する脇道へ逸れていった。




