約束
何ごともなかったように、蛍が飛んでいる。
先ほどと変わらないはずの川のせせらぎが、妙に大きく聞こえた。
男たちの影が、係留した小さな舟のまわりに蠢いている。
「ったく、死体ってのは、なんでこんなに重いんだ?」
成田甚蔵と三浦屋孫次郎が、むしろに包んだ死体の両端を持って引きずっている。
与助は、橋の上に座り込んだまま、まだ立ち上がってこない。
平間重助はため息をついて、二人に手を貸した。
むしろを舟に投げ込むと、孫次郎がどなった。
「与助さん、いつまで呆けてるんだ!おら、いくぞ!」
与助はよろめきながら立ち上がった。
「これからどうするんだ」
平間が誰にともなく聞いた。
「舟で下流まで下る。そこから、水戸に抜ける」
孫次郎が答えた。
「この死体は?」
「途中で川に捨てるさ」
平間は顎をさすりながら、下村を見やった。
「こんなことをして、なんになる」
「俺に言ってんのか」
川べりでぼんやりしていた下村が振り返った。
「金さ」
下村はそう言って、また川を眺めた。
五人の着衣は血に染まっていた。
与助たちは、虚無僧の装束を脱ぎ、着替え始めた。
「先生方も、着替えな」
そう言って、孫次郎は絣の着物を投げてよこした。
「下村さん」
平間に急かされて、下村は重い腰を上げた。
そして大小を外すと、血糊のついた着物を脱ぎ始めた。
その時、草むらの上に無造作に投げ出された長刀へ、鈴木大蔵の細い腕が伸びたことに、下村は気付かなかった。
明けて早朝、中沢孫右衛門は、布団部屋で膝をかかえたまま眠ってしまった琴を起こした。
「そろそろ出よう」
琴は、沈んだ顔で中沢を見上げると、一つ頷いた。
「これからのことは心配しなくていい。君一人くらい面倒をみられる」
中沢は、優しい笑顔を作ったつもりだった。
琴は立ち上がり、結局使わなかった布団をたたみ始めた。
中沢は、しばらく黙ってその様子を眺めてから、やがて決心したように尋ねた。
「どこで剣術を習った?」
琴は、振り返ったが、哀しそうな眼をするばかりで何も言わない。
「私はこれでも上野国に養武館という小さな道場を持っててね。ちょっと気になっただけだ」
中沢は弁解するように言った。
「さあ、顔を洗ってきなさい」
琴は納屋を出ようとして、立ち止まった。
「剣は父に学びました。お侍さんの刀、父上のと同じ模様が入ってる」
「ちょっと、あんた」
表戸を開けて、出て行こうとする中沢の背中に、声が掛かった。
振り返ると、紙包みを持ったうめが例の不機嫌な顔で立っていた。
「火鉢の横にこんなもんが置いてあったんだけどね」
「おばさん。それは、政吉から預かった金だ」
「何度も言ったはずだが、こんなもんは受け取れないよ」
「俺だけが生き残って、最後の約束も果たせないんじゃ、俺はあいつに合わせる顔がない」
「別にあんたが気に病むことじゃないでしょうよ。悪いのはうちの馬鹿息子だ。とにかく、あれが死んでいようが、そんなことは関係ない。あたしは、金輪際あのヤクザ者とは縁を切りたいんだ」
「もっともだが、あいつの気持ちを汲んでやってくれませんか」
中沢は懇願した。
うめは、傍らで黙って話を聞いていた琴に眼を向けた。
「お琴、あんたには、それなりに金が掛かってる。わかってるね?」
「はい」
琴は答えた。
それは本当だった。
「遊郭には遊郭の掟ってもんがあって、女郎がこの街から出て行けるのは、死んだときか、旦那衆に身請けして貰ったときだけだ」
「はい」
「この金は、あんたの身代金として貰っとこう」
「…おうめさん」
琴は言葉を詰まらせた。
いつの間にか、禿や新造と言った若い娼妓たちも起き出してきた。
瀬川や亀の姿もある。
「あんたなら、この何倍も稼げたのに、まったく、割に合わないよ」
「すみません」
琴は泣きながら、初めて笑顔を見せた。
店を出ると、まだ浴衣姿のままの瀬川と亀が立っていた。
「元気で」
亀が泣きながら言った。
「ありがとう。お亀ちゃんもね」
琴は亀の手を握り、瀬川を見た。
「じゃあね」
壁に寄りかかっていた瀬川は、素っ気なくそれだけ言うと、琴の頭をポンと叩いて中に入って行った。
鈴木大蔵と森山繁之介が水戸に戻ったのは、翌日の日も傾いた頃だった。
道場の入り口には腕組みをした野口哲太郎が仁王立ちして待ち構えており、
大蔵は引きずられるようにして、道場主金子健四郎の前に突き出された。
「…さて。まずは聞かせてもらおう。道場の名を背負って外へ出た者が、何をしてきたか」
大蔵は、差し支えのない範囲で事情を話し、罰としていくつかの雑用を仰せつかって許された。
繫之介と粂太郎も、案の定、家人からこっぴどく叱られたが、金子の取り成しもあってひとまずは事なきを得た。
しかし、昨夜目撃した凄惨な事件については、三人だけの秘密として誰にも話すことはなかった。
「悪いな。わたしのせいで君まで」
大蔵は、稽古着を着けながら、昨日の様子が嘘のように、常と変わらぬ口調で言った。
「なに、いい経験になったさ」
繁之介は笑って受け流した。
「あんなものを見てしまうと、『愛民』なんて理想に疑問を感じてしまうがね」
「政治だって、最後はあれと同じさ」
繁之介は、大蔵の顔をまじまじ眺めた。
そして、禁忌に触れたように、話題を換えた。
「…誰だか知らないが、その刀、早く渡せるといいな」
「ああ、いつか志筑に帰ったら。必ずそうするよ。けど」
「けど?」
「もうしばらく此処で、己を磨くことにしようと思う」
その眼には、秘めた決意のようなものが宿っていた。
中沢孫右衛門と琴。
二人が吉原大門を出ると、着流しの若い男がひとり、こちらをじっと見つめていた。
中沢は、その男に気づくと、琴の肩に手をおいた。
「わたしはあの人ともう少し話があるから、先に行ってなさい。千住の宿場で落ち合おう。茶屋で待っててくれればいい」
そう言い聞かせて硬貨を数枚握らせると、中沢はそっと琴の背中を押した。
中沢と男はニ言三言ボソボソと言葉を交わすと、連れだって建物の影へと消えていった。
琴はそれを見届けてから日本堤を北へ数歩踏み出し、ふと立ち止まった。
それから、考えを変えたように反対の方向に歩き出した。
田畑に囲まれた吉原遊郭も、浅草寺の方まで来ると数件の武家屋敷が散在する。
その、高い塀に囲まれた路地で、中沢は男と対峙していた。
「申し訳ないが、私は、今死ぬわけにいかなくなった」
「中沢さん、分かってると思うが、あんたはもう終わりだ」
「あんた、たしか飯岡のところの花輪弁吉、とかいったな…けじめを取りに来たってわけか」
「分かっていれば、話が早い」
中沢はひとつため息をついた。
「なあ弁吉さん。金を返して、それでことを納めてもらう訳には…」
「見苦しいぞ。抜け」
「…ならば仕方ない」
中沢は抜刀した。




