吉原大門
「市さん?どうしてこんなところに」
闇の中に立つ男の顔を見て、中沢は手綱を引き絞った。
「ご無沙汰しております」
それは、汲上村で大蔵たちを助けた、あの座頭だった。
「なにね。あっしもそろそろ渡世から足を洗おうと故郷へ足を向けたんですが、道すがら不穏な噂を耳にしましてね」
「笹川のことか」
「へえ。しかも、中沢の旦那があっしの代わりに笹川へ呼ばれたなんて聞いたものですから。ひとこと、御忠告申し上げようと」
中沢は、半ば呆れたように息を吐いた。
「ずいぶん義理固いな」
「旦那は政吉さんの御母堂をずいぶん気にかけてらっしゃった。このうえ、旦那まで死んじまっちゃあ、おっ母さんもやり切れんでしょうが」
「そうか。しかしこの通り、私はまだ此処にいる」
「どうやらそのようで。江戸に向かえば成田街道のどこかで行き当たると思ったが、余計なお世話だったようですな」
「いや、そうでもない。ひとつ助けてくれないか」
市は愛嬌のある笑みを浮かべて、頷いて見せた。
「よござんす。なんなりと」
やがて三人は、吉原へと続く五十間道の手前で足を止め、馬を繋いだ。
ここから先は、別の理が支配する場所だ。
行灯の明かりに照らされた吉原大門が見えると、中沢と琴は思わず身構えた。
壁の向こうから、笑い声や三味線の音が漏れ聴こえる。
花街特有の匂いが、夜気に乗って流れてきた。
門の前では“四郎兵衛”と呼ばれる吉原の自衛団が、出入りする女郎や関係者を厳しく検めている。
市は琴の肩を軽く叩いて、
「このボロを着な」
と、油と香の匂いが染みついた、使い古しの小袖を投げてよこした。
「いいかい?黙って、あっしのうしろをついて来るんだ」
座頭市は杖を突きながら、吉原大門をゆっくりとくぐる。
「まて。その子供は?」
門番が咎めると、市は淀みなく応えた。
「この小僧も目が見えなくてね。あたしの身の回りの世話をする弟子なんでさ」
市は琴の頭をぐいと下げさせた。
門番は市の風体に毒気を抜かれたか、鼻を鳴らして道を開けた。
琴と中沢はこうして第一関門をやり過ごした。
しかし、上総屋の裏口まで戻ってみると、
そこでは今まさに、行方不明になった禿を巡って騒ぎが起きていた。
「足抜けだ」「どこへ行った」――奥から怒号が聴こえてくる。
そんなところへひょっこり顔を出した琴に、楼主の文次郎は一瞬言葉を失い、それから大声で怒鳴った。
「たけじ!おまえ、今まで何処にいやがった!!」
座頭市は、おずおずとふたりの間に割って入り、口を開いた。
「どうぞ、叱らねえでやって下さいまし。引手茶屋でこの娘に三味線の手ほどきをしていたら、つい熱が入りすぎちまいましてねえ」
市は額に手をぴしりと当てて、深々と頭を下げた。
「大事な娘さんを長い間お借りした分は、きっちりお支払いさせていただきます」
市はそう言うと、懐から汚れた布に包まれた小銭をジャラリと上り框に置いた。
文次郎は床の金と市の顔を交互に睨みつけた。
「見え透いた嘘を!あんたがどういう了見で、この娘をかばうのかは知らんが、これは足抜けじゃねえのか!」
文次郎の声が、土間に響いた。
事情を知る遣り手のうめは、とにかくこの場を納めようと文次郎をなだめた。
「旦那、まあいいじゃないか。こうやって戻ってきたんだし、この坊さんは金も払うと言ってる」
「なにを他人事みたいに!禿の見張りはお前の仕事だろうが、うめ!」
「悪かったよ、この通り。この娘には、あたしが後でたっぷり折檻を加えてやるからさ」
文次郎の怒りはまだ収まらなかったが、それでもうめの取り成しで渋々引き下がった。
「…おまえがそう言うなら今回だけは見逃してやる。だがいいか、たけじ。次やったら死ぬほどの目に合わせてやるからな!よく覚えとけ」
琴はただ黙って頷いた。
「じゃあ、あっしはこれで」
市がぺこりと頭を下げ、騒動もひと段落したと思われた、その刹那。
けたたましく裏玄関の戸を叩く音が聴こえた。
うめが咄嗟に表情を取り繕い、襟を正して対応に出ると、戸口には提灯を掲げた一人の同心が立っていた。
「山谷で起きた刃傷沙汰の件、何か聞いておるか。女衒が腕を斬り落とされ、下手人が連れの少女と共に逃げておる。心当たりがあれば直ちに申し出よ」
小部屋の陰にいた琴と中沢は、同時に息を止めた。
うめは、琴がいることなどおくびにも出さず、平然としらばっくれた。
「まあまあ、物騒な。廓になにか見聞きした者がおれば、お奉行所に届け出るよう、皆に申し伝えておきます」
同心が去るのを見届けるやいなや、うめは中沢と琴の襟首を掴むようにして、奥へと押し込んだ。
「来な。ここじゃいつ見つかるか分かったもんじゃない」
うめは二人を、奥の小部屋に押しやると、
最後に市を振り返り、低く鋭い声で言い放った。
「それから、そこのお坊さん。女を買う気がないなら、とっとと出てっとくれ!」




