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辺りはすでに闇に包まれている。


大蔵おおくらは笹川村に入ってからというもの、下村嗣次しもむらつぐじの背中から常にピリピリした空気を感じ取っていた。

「やっぱり、来たのは間違いだったかもしれない」

「あのなぁ、なんだよ、今さら。」

森山繁之介の怒りも無理からぬことだった。


今いるのは、下総国しもふさのくに海上郡かいじょうぐんは笹川村。

昨日の朝、道場を出たときは、存在さえ知らなかった土地だ。

どうやら今日も水戸に戻るのは絶望的だった。

今頃、向こうでは大騒ぎになっているに違いない。


しかし大蔵おおくらの胸を占めているのは、その事ではなかった。

「さっき下村達が出て来た家に『笹川一家』って看板が掛かってたろ?志筑しづくの使用人から聞いた話では、あの笹川一家ってのは、隣町の親分とめてるらしい」

同調して話を引き取ったのは粂太郎くめたろうだった。

「ああ。俺も聞いたことあるぜ?3年前に利根川べりで、1000人が入り乱れての大喧嘩おおげんかがあって、その時は半分の500人以上が死んだってさ」

「なんかそれって、眉唾まゆつばじゃないか?」

繁之介が鼻で笑う。

「まあ、勝蔵かつぞうの話は、いつも少し尾ひれが付いてるんだけど」

そう言いながらも、大蔵は周囲に目を走らせた。

闇の中に溶け込む家並みは、どれも同じように口を閉ざし、こちらを拒んでいるように見える。

「どうする?後をつけるにしても、こんな人気ひとけの無い道じゃ目立つし、身を隠す場所もないぞ?」

「でも、もうここには居たくねえ。蚊がすげえしよ」

粂太郎くめたろうが不満を漏らす。

「さっき一緒に出てったのは、きっと笹川の親分だよ。またあの家に戻って来るだろうから、隠れるのに適当な場所をみつけて、そこで待とう」

「なんだか、うれしそうに見えるぜ?」

繁之介の言葉に、大蔵は苦笑した。

「言ったろ。後悔してるよ。でも、ここまで来てスゴスゴ帰れないじゃないか」

粂太郎くめたろうが胸を軽く打って笑った。

「しょうがねえ、付き合ってやるよ。でもその後どうする?」

「正面から行くのはどうやら上策じょうさくじゃなさそうだ。すきを見て盗むしかないだろ」


繁之介は、ことも無げに言う大蔵おおくらに、顔に似ず豪胆ごうたんな一面を垣間見かいまみた。




笹川繁蔵ささがわのしげぞう下村嗣次しもむらつぐじらに伴われて出掛けて行くのを見届けると、孫次郎まごじろうは、サラシの上から黒の小袖こそでに腕を通し、手甲てっこう脚絆きゃはんといういでたちで、ひっそりと笹川一家の裏口を出た。


程なく、中沢と申し合わせた、与助よすけの妻お万の実家に着いたが、中沢孫右衛門なかざわまごえもんの姿はまだ見えない。

孫次郎まごじろうは、じりじりしながら、それから半刻はんときほども待ったが、中沢が姿を現す気配は無かった。

「これ以上は待てねえ。何か間違いでもあったか」

仕方なくお万の父に言伝ことづてを残すと、鈴木大蔵おおくらと森山繁之介がひそ竹藪たけやぶの前を通り過ぎ、ビヤク橋に向かった。


ビヤク橋には、すで境屋与助さかいやのよすけ成田甚蔵なりたのじんぞうが、岸に舟を着けて待っていた。

二人は虚無僧こむそう装束しょうぞくに身をつつみ、深編ふかあみ笠、いわゆる天蓋てんがいを被っていて、どちらがどちらなのか、孫次郎まごじろうにも判然としない。

「おまえ、一人か?中沢先生は」

やがて、その内の片方が、与助よすけの声で責めるように言った。

「すまねえ。何かの手違てちがいだと思うが、道に迷ってんのかも知れん。お万さんの家に書置かきおきを残してきたから、追って来るはずだ」

「肝心の時に座頭市の野郎はいねえし、中沢先生がもし間に合わなかったら、俺たちだけで本当にやれるんだろうな」

孫次郎まごじろうにも袈裟けさ天蓋てんがいを手渡しながら、もう一人の男が不安そうに口をはさんだ。

「下村達がいる。繁蔵しげぞうの取り巻きがあと何人かいたとしても、こっちは五人だ。如何いか繁蔵しげぞうとはいえ、万が一にも取り逃がすことはあるめえ」

「とにかく、段取りを間違えんな。連中がビヤク橋の中ほどに差し掛かったら、俺たちが虚無僧こむそうのなりで後ろから近づいて、退路たいろを断つ。それから、俺が最初に刀を抜いて、繁蔵しげぞうの気をらせる。振り返った奴は、下村先生に背中をさらすことになるから、先生が一太刀ひとたち入れたら、全員で仕留しとめるんだ」

与助よすけは、自分に言い聞かせるように、計画を復唱ふくしょうした。

「後は、向こうの数次第だな」

そう言って、孫次郎まごじろうは今来た道を振り返ってみたが、やはり中沢が来る様子は無かった。





辺りは血の海になっていた。

さわぎに気付いた長屋の住人が戸口から顔を出し、悲鳴を上げた。


それでも琴は無言のまま、放心したように突っ立っていた。


その顔は生きている人間とは思えないほど蒼白そうはくだった。

中沢孫右衛門なかざわまごえもんも、この奇異きいな状況をいまだ把握はあく出来ずにいた。


琴は血の中にひざをつき、吐いた。

何千回、何万回と木刀を振るったが、人を斬ったのは初めてだった。


中沢は、琴の手に握り締められた脇差わきざしを引き剥がすと、急いで彼女を馬上ばじょうかかえ上げ、その場を立ち去った。


今はもう人影の無い夜の桟橋さんばしまで来たとき、中沢は馬の歩みを止めた。

「おさむらいさん、行っちゃ駄目だめ

中沢の背中で、琴が、うわ言のように、あの時の言葉をもう一度繰り返した。

「この騒ぎじゃあ、行きたくても行けないよ」

中沢は振り返ると、き物が落ちたような顔で、琴に微笑ほほえんだ。


その時、中沢の駆る馬の前に、黒い影が立ちはだかった。




「先約ってのはこれか」

賭場とば開帳かいちょうされている民家の前で、平間重助は一人毒づいた。

平間は、笹川の家を出るときに下村が言った言葉の真意を図りかねていた。

その時、下村嗣次しもむらつぐじが、中からヌッと顔を出した。

「まあ、ヤクザだからよ。博打ばくちに顔出すのも仕事の内なんだろうぜ」

平間のひとり言を聞いていたようだ。

「いいんですか?親分さんのそばにいなくて」

「別に仕事してたわけじゃねえよ。お前もやってけって言うからよ。ちょっと付き合ってただけさ」

「で?」

寺銭てらせんが切れたから出てきたんだよ」

平間は少し笑って、下村に向き直った。

「下村さん、さっきの件だが」

「おう」

下村は、平間の意をんで、声音を落とした。

「ここを出たら、るぜ」

「本気ですか?何故です」

「細かい説明は後だ。この先に橋が架かってる。そこに、仲間が四人待ち伏せてる手筈てはずだ。とにかく俺が抜いたら、お前も続け。迷ってたら死んじまうぞ」

「分かってるでしょうが、あの男、手強てごわいですよ」

下村はそれには答えず、フンと鼻を鳴らすと、鉄扇てっせんで首の後ろをコツコツと叩き始めた。



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