抜刀
「茶番だ」
誰も居なくなった客間に取り残されると、平間重助は吐き捨てた。
下村は、今は使われていない囲炉裏の脇で、片膝を立てて刀の目釘を改めている。
「ご機嫌ななめだな」
「下村さん。あんた、どういうつもりでこんな素浪人がやるような仕事を請けた」
「まあ、いいじゃねえか。なんたって、素浪人みたいなもんだしよ」
そこへ、板張りの引き戸を開けて男が入ってきた。
「水戸から来た先生方てのは、あんた達かい?」
猿のような顔をしたその男は、意味ありげに二人の顔を見比べた。
「そういうあんたは」
下村は、刀から目を上げず、問い返した。
「おっと失礼。所用で留守にしてたもんで、挨拶が遅れちまったな。笹川一家の子分、三浦屋孫次郎ってもんです」
「拙者は、水戸の平間重助と申す者」
平間は軽く会釈して、下村を見やった。
下村は、チラと視線を上げて、
「よろしくな」
とだけ、応えた。
「早速で悪いが、親分がお出かけんなる。お願いしていいかい?」
「いいさあ。その為に来たんだ」
下村は、途端に愛想のいい笑顔になると立ち上がった。
孫次郎がそそくさと出て行くと、下村は帯を締めなおしながら平間の方を振り返って、声を落とした。
「面白くなってくんのはこっからだぜ。俺たちゃ今夜、繁蔵を斬る」
平間は言葉を失った。
「精々、大向こう受けする決め台詞を考えとくこった」
そう言った下村の顔は、いつもより蒼ざめていた。
夜明け前の山谷――聖天町裏の外れは、
人足宿と口入屋が折り重なる、江戸でも指折りの吹き溜まりだった。
湿った土と古畳の匂いが入り混じった空気が、板壁の隙間からじっとりと染み込んでくる。表通りでは人足宿の戸が固く閉ざされ、遠くで犬の吠える声だけが、時折、闇を引っ掻いた。
琴は、土間に近い六畳間の隅に座らされていた。
縄は掛けられていない。
だが、逃げ場もなかった。
襖は外され、戸口にはいつでも男が立てるよう、行灯の灯が低く据えられている。
逃げようと思えば、すぐに叩き伏せられる――そういう造りだった。
三八の家の外には、栗毛の馬が一頭、柱に繋がれている。
蹄の下には藁が敷かれ、手入れも行き届いていた。
この家が「人を留め置くための家」であることを、馬だけが雄弁に物語っている。
近江屋三八は、かつて山谷に大店を構えた女衒屋だった。
誘拐まがいの人買いも厭わず、その事業は隆盛を極めた。
やがて、天保年間の飢饉に端を発する貧困が、遊郭に流れる女たちの数を飽和状態にまで押し上げ、皮肉にもこの男の商才は意味を成さなくなった。
そうして、瞬く間に近江屋は凋落した。
しかし、長らくこの世界に身を置いた三八は、未だ裏社会に気脈を通じ、良心を持たないことにおいて、件の笹川繁蔵や飯岡助五郎も及ばないほどの人間である。
その眼には何の感情もこもっていない。
「お琴ちゃん、昼間も上総屋の裏で会わなかったかね」
三八は、敏感に琴の顔色が変わるのを見て取った。
「気付いてないと思ってたかい?」
琴は、気丈に三八を見返した。
「旦那どうします?まだ小さいが、これは賢しい娘でね。だいたいんとこ、事情を察してるようだ」
「この娘は、いったいなんだ」
「あたしが、『上総屋』に売っ払ったお嬢さんです」
「上総屋」の名を聞いて、中沢は顔色を変えた。
「お侍さん、行っちゃ駄目」
三八に視線を据えたまま、琴は言った。
「えっ?」
中沢は、その毅然とした響きにたじろいだ。
「旦那が殺りますか?」
「馬鹿言え。こんな子供に手を掛けられるか」
「さっきまでの慎重さは何処へ行ったのかね。それともあたしに手を汚せってことですかい?」
三八の口調は、あきらかに中沢を見下している。
「もっとも、あたしは昔っから汚れ仕事には慣れてますが」
その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
この男には、もともとそういった性癖があったのかも知れない。
三八は琴の腕をつかみ、乱暴に引っ張り上げた。
「立ちな。ここを出るんだ」
「まて、なにをする気だ!」
中沢が掴んだ袖を、三八は振り払った。
「旦那あ、あくまでお綺麗でいたいなら、ここから先は目を瞑っていてもらいましょう」
「なんだと…」
中沢は何か言いかけて、言葉を飲み込んだ。
「その馬は目立つんでね、一緒に連れていく」
三八はそう言って、中沢に手綱を寄越し、山谷堀の方へと琴を追い立てた。
その先は長屋の裏と水路しかなく、夜更けに人が近づく理由のない場所だった。
やがて、さびれた船着き場の跡まで来ると、三八は立ち止まった。
「さて。ここなら始末しても、堀に放りこみゃ足がつかねえ」
それは蛙の舌が伸びる如く、速い動きだった。
「まて!」
後方を歩いていた中沢が止めるまもなく、
三八の両腕は、琴の細い首筋に届いた。
しかし、筋張った腕がつかんだのは、なにもない宙空だった。
琴は身を沈め、あっという間に一間も飛び退いていた。
中沢には、まるで目の前に突然少女が現れたように見えたほどだ。
そしてつぎの瞬間。
眼下に、自分の脇差を、か細い腕が抜刀するのを目撃した。
右手で轡をとっていた中沢は、完全に虚をつかれた。
琴は、退いた時と同じ軌道で、三八へと跳躍した。
それは刹那の出来事だった。
中沢が我に返った時、のたうつ三八と、空を掴んだままの右腕が、暗い路地に転がっていた。
傍らには、それを見下ろす琴が立っている。
そして、囁くように三八に語りかけた。
「教えて。さっきの話、気になってたんだけど。あの馬番は、そのあとどうなったの?」




