巨魁
翌朝、空は薄曇りで、海からの風が街道の砂をさらっていた。
一行は汲上の宿を発ち、海べりを走る飯沼街道を南へと進む。
やがて鹿島の外れ、街道が二手に分かれる辻で、座頭は立ち止まった。
片方はそのまま南へ、水戸方面へ続く道。
もう一方は内陸へ折れ、利根川を遡って、やがて江戸へ通じる道だった。
「ここでお別れだ」
市は言った。
白く濁った眼は、誰を見るともなく、三人の方を向いている。
「座頭さんは、たしか昨日、鹿島から来たと言ってませんでしたか?」
大蔵が気になっていたことを尋ねると、座頭は小さく笑った。
「そうなんだが、ちょいと品川に野暮用を思い出してね」
繁之助が一歩前に出た。
「お世話になりました。…道中お気をつけて」
座頭は繁之助の方へ顔を向けると、指先で杖を軽く叩いた。
「坊やたちも、用心しなよ。分かってると思うが、お前さんたちが付けてるあの大男は堅気じゃない。命が惜しけりゃ、ヤクザ者には近づかないこった」
大蔵はわずかに身を強張らせた。
座頭は踵を返し、江戸へ向かう道へと歩き出した。
背中の琵琶が、朝の光を受けて鈍く光る。
三人は、再び前方をゆく下村たちの背中に視線を戻し、その少し後ろを、一定の距離を保ってついてゆく。
やがて、粂太郎が暇を持て余したように口を開いた。
「なあ、知ってるか?去年も一昨年も、この辺の浜に異国船が寄ったって話」
「漂流船だろ?大袈裟に騒いでるだけさ」
繁之助が即座に断じた。
大蔵は首を横に振る。
「そうかな。内房でも外房でも、異国船は、砲の届く距離に入らず、沖合を行き来して、碇も下ろさず去っていったと聞いた」
「だから何だよ。この国に足を踏み入れれば斬る。それだけの話さ」
繁之助は不機嫌そうに言った。
海は凪いでいても潮風は鋭く、砂に混じった貝殻が草鞋の裏で乾いた音を立てる。
街道沿いには漁師町とも宿場ともつかぬ集落が点在し、やがて一行は笹川の地に足を踏み入れた。
「問題は、その前さ」
大蔵は歩調を緩め、二人に合わせた。
粂太郎が口を尖らせて頷く。
彼はやんちゃだが、博識で頭が切れた。
「奴らが清にやった手口はこうさ。まず測量船をよこして、港の水深や砲台の位置を把握するだろ?つぎに漂流を装って上陸の既成事実を作る。そして最後には武力で恫喝して、通商要求を突きつけるんだ」
大蔵は静かに問い返した。
「けれど、房総沿岸は、浦賀奉行所の管轄で、砲台の数も限られ、通報が届く頃には船は姿を消してる。では、どうすればいい?」
粂太郎は答えに窮した。
「こちらから敵船に斬りこめばいい。万世一系たる帝の地を夷敵に踏ませるくらいなら…!」
繁之介の振り上げた拳を、大蔵はそっと抑えた。
「おっと、そこまで。着いたみたいだぞ」
笹川一家の屋敷は、街道から少し引っ込んだ場所にあった。
広い構えに、門構えだけでこの地の主が誰であるかを雄弁に語っている。
「下村さまと、平間さま。だっけえか」
芹沢たちが奥の間に通されると、四十がらみのダミ声の男が、のそりと立ち上がった。
「水戸くんだりから、すまねえなあ。こいつ等、なんでもかんでも大事にしちまいやがる」
笹川繁蔵は自分が吸っていたキセルの煙にむせたか、しわぶきながら、隣に立つ勢力富五郎の胸板を小突いた。
「親分が楽天的すぎるんだ。こっちは平田の旦那がいなくなって、いまは手薄なんだからな」
「あっちじゃ一番腕の立つ座頭市の野郎がケンカ別れして一家を出ていったというじゃねえか。飯岡なんざ恐るるに足らずさ」
繁蔵は富五郎に劣らぬ巨漢で、少し細身だが、その分引き締まって頑強そうな体格をしている。
二人が並んだ様はまさに壮観だった。
かなり上背のある下村が小柄に見えるほどだ。
「こいつとは、わっしが昔、江戸の相撲部屋にいた頃からの付き合いでね。何くれと無く世話を焼いてくれるのはいいが、ちいと気を回し過ぎる」
笹川村近隣一帯を取り仕切る一家に相応しい、広々とした玄関で、下村と平間は会釈した。
「お初にお目にかかる。拙者は、水戸藩上席郷士、下村嗣次と申す」
「同じく、水戸藩郷士、平間重助」
繁蔵の押出しに気圧されたか、下村は多少の箔付けに本家の身分を名乗った。
「まあまあ先生方、上がってくれ。かたい挨拶は抜きにしよう。折角来て頂いたんだから、一席設けたいところだが、あいにく今晩は先約があってな」
繁蔵はそう言って、下村の肩に手を回すと、低い声で囁いた。
「時に下村先生。最前から気になってたんだが、ずいぶん立派なものをお腰に差していらっしゃる」
下村は煙草臭い息に眉をひそめた。
「長いばかりの数打ちだ。俺はタッパがあるんで、これっくらいはないとね」
「しかし、その鞘のこしらえは、随分変わってる。何か謂れのある大業物かと思ったがね」
「買いかぶりさ」
「どうだろう、先生。見ての通り、わっしも図体ばかりでかくて持て余してるんだが、ちょっとそいつを抜かしてくれねえだろうか」
繁蔵が肩に置いた手は、軽く添えられただけに見えたが、まるで鷲の爪が獲物に食い込むように下村を離れなかった。
いつの間にか、下村の額には汗がにじんでいた。
「かまわねえが」
下村は、その手を振りほどくようにして繁蔵から身体を引き離すと、繁蔵に刀を差し出した。
繁蔵は、ジッと下村の目をみたまま、突き出された刀の鞘を握った。
下村の手に、その力が伝わってきた。
鞘から手を離そうとしたが、意思に反して握った掌は開かない。
「下村さん」
平間の一言で、下村はまるで魔法が解けたように手を離した。
笹川繁蔵は、件の装飾をひとしきり吟味した。
やがて、二尺八寸もある刀を居合の要領で抜き放ち、刃先を上にして行灯の明かりにかざした。
「こいつでスパッとやられたら、斬られたことすら気付かねえかもしれん」
刀身は下村の首筋の脇に延びている。
数え切れない修羅場をくぐって来たであろう男の眼は喜色を帯びていた。
下村はやっとの思いで笑い返すと、刀の棟を摘まんで傍らへ寄せた。
繁蔵が嗤う。
「銘があろうが無かろうが、こいつは極上物だ。まるで、性悪の太夫みたいな艶があると思わねえかい、先生?」
「親分さん。悪いが俺はそういった風流を解さねえ。刀なんてのは、つまるところただの鋼さ」
笹川繁蔵は口をへの字に曲げて、少しおどけた表情を見せると、みごとな手つきで刀を返して、鞘に収めた。
「しかし残念ながら、わっしら長ドスの流儀じゃ、こいつぁ扱えねえ」
その男は、文字通り巨魁だった。




