密計
琴は、洗い場で雑巾を絞りながら、上がり框に腰掛けて煙草を吹かしているうめに鎌を掛けてみた。
「待合辻の裏で、あの男の人を見ました」
それだけ言えば通じるだろうという口ぶりだった。
うめは吐き出した煙をぼんやりと目で追っている。
「…何か話したのかい」
「いえ、見かけただけ」
「…むかし洲崎界隈をのたくってたやくざ者さ」
うめはまた、煙を吐いた。
それから琴の方に向き直ると、噛んで含めるように言った。
「あんた、此処で長生きしたけりゃ、ああいう手合いには関わらないこった。色町ってのはね、金と一緒に、色々余計なもんが流れ込んでくる。そうして、こういう吹き溜まりには、自然とそういう半端者が棲みつくんだ」
ひぐらしの鳴き声が聴こえている。
琴は黙って頷くことしか出来なかった。
「ま、女郎にやくざと関わんなってのも、無理な話か」
そう言って、うめはまた虚空に視線を戻した。
夕刻の吉原は、昼と夜の境を引き延ばしたような時間だった。
大門の内側では、格子越しに吊るされた提灯が一斉に灯り、紅殻塗りの楼閣が、薄紫の空を背に重なり合う。
三階建ての座敷からは三味線の調子が流れ落ち、欄干に寄りかかる女郎たちの笑い声が、甘い白粉の匂いと混じって路地へ滲んでいく。
板敷きを踏む下駄の音、酒肴の器が触れ合う乾いた響き――
この町では、人の欲も思惑も、すべてが上へ上へと積み重なり、やがて楼の奥で静かに澱むのだった。
「たまには客の側に周ってみるのも悪くねえ」
近江屋三八は、上総屋の座敷で酌を受けながら低く笑った。
そんな三八を冷ややかな眼で眺めながら、瀬川は中沢孫右衛門という侍の盃に酒を注いだ。
「旦那さん、お酒が進みませんねえ」
扱い辛い客には慣れている瀬川も、この男の重苦しい雰囲気には手を焼いていた。
一人目尻を下げている三八はともかく、この部屋には、先ほどから会話らしい会話は何一つ無かった。
中沢は、瀬川のお愛想を黙殺すると、三八をにらんだ。
「そろそろ本題に入ってくれ」
「まぁまぁ、もう少ししたら…」
三八が言い終わらないうちに襖が開いて、
「近江屋様、お連れ様がお見えです」
と女中が来客を取り次いだ。
「お通ししてくれ」
老人がしわ枯れた声で鷹揚に手招きすると、案内も乞わずに男がずかずかと入ってきた。
「ご機嫌だな」
どことなく猿を思わせる容貌の、着流しの男が二人を見下ろした。
風体は侠客そのものだったが、中沢の見知った顔ではなかった。
「悪いが外してくれ」
男に追い立てられるようにして、瀬川ともう一人の芸妓は座敷を出された。
「ちょ、ちょ、ちょ!なんだってのよもう」
騒ぐ瀬川の目の前で、男は後ろ手に襖をピシャリと閉じた。
厚手の襖と障子に遮られ、廓の通りで鳴っているはずの三味線も、笑い声も、ここまでは届かない。
高い天井から下がる行灯の灯は、揺れもせず、影だけを畳の上に落としている。
三浦屋孫次郎と名乗るその侠客は言った。
「時間がないから二度とは言わねえ、よく聞いてくれ」
「話すのは勝手だが、まだ仕事を請けるとは言っていない」
中沢は片膝を立てて盃を傾けている。
その眼は、閉じているのか、開いているのか、俯き加減の顔からは判断できなかった。
「おい!」
孫次郎は、話が違うという風に近江屋三八を見て、低く凄んだ。
「旦那、ここまで来てそりゃねえ。あたしの顔を潰さんで下さいよ」
三八が卑屈な笑みを浮かべて取り繕う。
「とにかく、この件を受けるも受けないも、話を聞いてからだ」
「まあいい。だがあんた、今更ただで帰れるなんて思ってねぇよな」
「思ってないさ」
孫次郎を見返す中沢の眼には、微かな狂気が宿っていた。
「予定が前倒しになった」
孫次郎は切り出した。
「明日の夜、繁蔵を殺る」
「待て。繁蔵はまだ四十前の男盛りで、しかも元は江戸相撲の力士だ。ことはそう簡単じゃないぞ」
「んなこたぁ、わかってる。俺とあんたのほか、与助さんと成田甚蔵が、笹川に出張ってくる。明日の朝には、既に舟で隣の須賀山村に入ってるはずだ。この二人はあんたも顔見知りだろ」
孫次郎が与助さんと呼んだのは、首領飯岡助五郎の実子で、洲崎の政吉亡き後、若頭を継いだ男だ。
「あの馬鹿息子が一緒では、身内に敵がいるようなものだ。あんな奴が近くで刀を振り回してたんじゃ、命がいくつあっても足らん」
「何も、面と向かって、名乗りをあげてから斬り合うわけじゃねえよ」
孫次郎は手の甲で空を払う仕草をすると、猿のような顔をしかめた。
若頭への侮辱に何も触れなかったのは、彼も同じ意見だったからに違いない。
「だとしても、笹川繁蔵も子分の2人3人は連れているだろう。不意討ちが通用するのは最初の一太刀だけだ」
「心配すんな。笹川んとこに二人ほど、腕の立つのを紛れこませた。そいつ等は用心棒として繁蔵に張り付いてる手はずになってる。繁蔵は、身内だと思ってる人間に初太刀を浴びるわけだ」
「場所は」
「奴は賭場帰りに、必ずトヨって妾のところへ寄る。女の家までは一本道。利根川の支流に掛かるビヤク橋を通る。そこで、奴を殺る」
孫次郎と中沢は、暫く無言で見詰め合っていた。
「誰が絵を描いたんだか知らねぇが、たいしたもんだ」
酔った近江屋三八が、調子外れの合いの手を入れた。
孫次郎はそれを無視して、中沢に詰め寄った。
「その気になってきたかい?」
「問題は、その後だ」
「わかってるよ。橋の袂に着替えを載せた船を待たせてある。そいつで一旦、松岸って町まで下ってから、陸路で水戸領に抜けることになってる」
孫次郎は片眉を吊り上げてニヤリと笑った。
「随分と差配が行き届いてるが、その二人の他に中で手引きしてる奴でもいるのか」
中沢孫右衛門は、残っている酒を、孫次郎に注いだ。
「俺だよ」
それをグイと飲み干しながら、孫次郎は答えた。
「まあそんな訳でな、俺は繁蔵に怪しまれないうちに戻らないといけねえ」
盃を返すと、孫次郎は立ち上がった。
交渉は成ったと踏んだようだ。
孫次郎は敢えて中沢に返答を迫らず、代わりに紙に包んだ五両を投げてよこした。
「手付金だ。聞いた話じゃ、あんたは政吉への義理を果たすつもりかも知れんが、俺の顔を立てると思って、受け取ってくれ」
中沢は畳の上の五両を見つめたまま、何も言わなかった。
「あんたは後から来い。そこで酔っ払ってるジジイに馬の手配をさせてある」
「何処に行けばいい」
中沢は、意を決したように孫次郎を見上げた。
「ビヤク橋のそばに、与助さんの女房の実家がある。そこで落ち合おう。その包み紙に地図を描いておいた」
「もう一つ」
慌しく出て行こうとする孫次郎の背中に、中沢は問いかけた。
「笹川一家に紛れ込ませたってのは、いったい誰だ?」
「面が割れてねえ他所の人間だからな、あんたは知らねえよ。下村って若い侍だ」
「信用できるのか」
「俺に言わせりゃまだガキだが。まあ、腕は確かだぜ」




