1 焼魔
村人達は年寄りから子供まで総出で、魔族の大船団に覆われた薄明の空を見上げていた。何十人もの奴隷が羽型の櫂を漕いで進む魔族の三段櫂船は、千五百年前と変わっていなかったが、村人達がそれを見たのは初めてだった。空を飛ぶ巨大な昆虫のように見える母船は、多数の兵員と兵器を載せて地上数十メートルの高さを次から次へと通過していった。
かつて降魔軍の蘭城があった辺境最遠端の村は、幸いなことに魔軍の攻撃目標ではなさそうだった。千五百年前の龍玉の年に、降魔軍と魔軍の最後の大激戦が展開された地は、今では戦略的重要性を失っていた。蘭城に拠った須弥族は滅亡し、かつてユカ族やクヌ族が住んでいた辺境地域の平原地帯には、山岳地帯から移り住んだ少数部族の集落がところどころに点在するだけだった。
魔軍の船団は真っ直ぐに亜空間霊界に向かって進んでおり、小さな村に着陸する気配はなかった。魔軍にその気があれば、船から火矢を射て村を焼き払うことは簡単だったが、敢えてその手間を掛けることもしなかった。
魔族が破壊する価値さえ見出さず、素通りされた村の人々は、怖さを忘れて威圧感のある大船団が通過していく光景を見守っていた。
と、軍船からただ一人だけ浮遊して、村人の集団のほうに降りてきた者がいた。
最小限の金属製の装具を付けているが、逞しく黒い体は裸身に近い。頭部には固い棘のような髪が生えていて背中まで伸びていた。誰も見たことがない種族で、暗黒界の奥深いところから来たに違いなかった。
黒い魔人は武器は携えておらず、魔族の平和的な意向を伝えにきた使者か、あるいは村人に何かききたいことがあるか、ないしは糧秣の提供等協力を求めに来た者のように見受けられた。
白髪の村の長が村人の群れから進み出て、黒い来訪者に呼び掛けた。
「暗黒界から来られたお方、我が村に何か御用でございましょうか。もしお手伝いさせていただけることがございましたら、何なりと承ります」
村長は初めから恭順の意を表し、魔族に協力を申し出た。
相手はそれには答えず、掌を村長に向けて突き出した。
突然村長の体がぼっと音を立てて発火し、炎に包まれた。
村人達は悲鳴をあげて後退った。
激しい炎の勢いに、村長は叫び声を上げるいとまもなく、黒焦げになって崩れ落ちた。村人達は黒い魔人の正体を悟った。
「焼魔だ!逃げろ!」
誰かが叫んだ。
村人達は蜘蛛の子を散らすように逃げだしたが、もう遅かった。
黒い魔人の動きは恐ろしく速く、逃げ惑う村人達を追いかけて、松明に火をつけるかのように次々と燃え上がらせた。一瞬でも高熱を発する掌を向けられたが最後だった。
焼魔の高熱放射は射程距離も長かった。数十メートル離れたところから矢を射かけた者がいたが、矢は高熱のせいで焼魔に届く前に焼け落ち、射手もたちまち火だるまになって焼け死んだ。井戸の中に飛び込んだ者もいたが、焼魔はそれも見逃さず、井戸の水を沸騰させて煮殺した。
あたりの家屋も一斉に炎に包まれた。焼魔の掌から放射される高熱は、人であれ建物であれ瞬時に発火させる力があった。小さな村はたちまちのうちに火の海になった。
村一つ焼き尽くすのに焼魔一人いれば十分だった。建物の火は周囲の木々にも燃え移った。焼けた木がバチバチと音を立てて弾け、炎は風を呼んでごうごうと燃え盛った。
最後の一人の村人が燃え上がり、まだ炎上していない建物が残っていないのを確認してから、焼魔は浮遊して船に戻っていった。
魔軍の船団はまだ続々と続いていた。燃える村の炎が通過する船団に照り映えた。腹を見せて多数の羽を波のように動かしながら飛んでいく母船は邪悪な赤い甲虫のように見えた。
焼魔が去ったあと、燃え続ける村に、炎に照らされた人影が浮かび上がった––––––焼魔はあたりの住人を念入りに皆殺しにしたが、地中に忍んでいた者がいたことには気付かなかった。
姫白龍と十数人の捷鬼党忍軍の忍びの者達は、地中に身を隠して魔軍の船に忍び込む機会を狙っていた。
母船の何倍もある魔軍の大型の母艦は船団の後方にあり、母艦にコの字型に囲まれた超大型の旗艦は最後尾に位置していた。姫白龍の一味は各自母艦の船尾に鉤縄を飛ばしてぶら下がり、縄をよじ登って船体にとりついた。
姫白龍は自ら旗艦に忍び込んだ。
多数の焼魔が乗り組んでいる船上では、酒宴の準備の最中だった––––––数日後に亜空間霊界を火の海にするための前祝と思われた。広い甲板の中央に魔族の大好物の神酒の大甕が置かれており、周囲にたくさん並べられた酒壺に移されるところだった。ソーマの酒壺を各母船に配ろうとしている。それこそが正に姫白龍が狙っていたものだった。
間に合った––––––
姫白龍は泥鬼から学んだ術で焼魔の一人の体内に身を隠した。
姫白龍に操られた焼魔は、無意識のうちにソーマの甕に白い粉を入れて、大きな柄杓でかき回した。見とがめる者はなく、姫白龍は船尾まで焼魔を歩かせてその体の中から抜け出ると、縄につかまって地上に滑り降りた。縄の端の握りを引くと、鉤縄は外れて落下し、あとに侵入の形跡を残さなかった。
姫白龍の魔軍の船上での滞在時間はほんの僅かで、忍びとして隙のない仕事をした。
捷鬼党の仲間達も次々と役目を終えて地上に降り立った。
あとはどれほど多数の魔族が、気付かずに猛毒入りのソーマを飲むかにかかっていた。泥鬼が用意したのは、天帝釈がヤマ族の毒殺に使った微量でも確実に殺すユカ族の毒薬だった。ソーマをひと舐めするだけで十分な致死量になる。
あと一人だ––––––
姫白龍達が最後の仲間が脱出してくるのを待っていた時、頭上で叫び声がして、火だるまになって船から落ちてきた者がいた。
しまった。見つかった––––––
「走れっ!」
姫白龍と捷鬼党の忍びの者達は、船団の進行方向と逆方向に疾風のように駆けた。
魔軍の船から、また一人だけ焼魔が浮遊して降りてきた。焼魔は地に降り立つと、恐ろしく速かった。風の如く走る捷鬼党の忍び達に、どんどん追いついてきた。後ろを走っていた者が振り向きざまに、手裏剣を投げたが焼魔は素早くかわした。
走りながら仲間が何人も燃え上がった。鍛えられた忍びの者達は燃えてもなお走り続けた。しかし、炎に包まれてはそう長くは持たなかった。仲間は一人また一人と倒れて脱落していった。
倒れた仲間を助けている余裕はなく、姫白龍はひたすら走り続けた。しかし、焼魔は全力で疾走する姫白龍に追いついてきた。
姫白龍は走りながら背中に熱いものを感じ、火がついた着物を急いで脱ぎ捨てた。
焼魔は姫白龍のすぐ後ろに迫っていた。
パチパチと音を立てて髪の毛先が燃えはじめた。
くそっ!
その時、何者かが横合いから焼魔に体当たりを喰らわせた。
泥鬼だった。
泥の肉体を持つ泥鬼は高熱にも短時間なら耐えられた。泥鬼の剣は焼魔の体を深々と貫き、焼魔の体が激しく燃え上がった––––––焼魔は死ぬ時に自ら発火するのだ。泥鬼と焼魔はともども炎に巻かれた。
泥鬼、死なないで––––––
心の中で念じながら、姫白龍は走り続けた。
しばらく走ると焼魔が追ってくる気配はなくなった。
姫白龍は湖のそばまで来て止まった。
水の中なら焼魔とも戦いやすい。湖に誘い込めれば何とかなる––––––
一息つこうとした時、こちらに走ってくる者が見えた。
泥鬼!
衣服が焼け、鎖帷子だけが焼け残っていて、全身にひどい火傷を負っていた。
「泥鬼、大丈夫なの?」
「仕留めるのにちょっと時間を掛け過ぎた」
泥鬼は不敵に笑った。
「ひどい火傷」
「心配するな。こんなものはじきに治る」
それは強がっているわけではなく、事実泥鬼は驚くべき回復力を持っていた。
「他に誰か逃げ延びた者は?」
「他の者達はやられた」
「無念。ほとんどうまくいっていたのに––––––」
「もっと悪いことにまた別な魔族の軍が迫っている。魔軍第二陣の氷魔だ。焼魔よりもっと厄介な相手だ。焼魔は手強いが武器で殺せる。しかし、氷魔には剣も役に立たない。弓矢も石火矢も氷魔の体をすり抜けてしまって効果がない。
氷魔を倒せる者は龍しかいない。氷魔には龍軍を差し向け、他の者は手出しをしてはならん。亜空間霊界に行ってこのことを急いで伝えるのだ。霊山龍神宮の我の先兵に会えば、龍軍を動かせるだろう。魔軍よりも先に行って知らせるのだ」
「泥鬼、わかった!」
答えるや否や、姫白龍は脱兎のごとく走り始めた。
「姫白龍、お前も龍であることを忘れるな。それに着物くらい着て行けよっ」
泥鬼は姫白龍の背中に呼び掛けた。
疾駆する姫白龍は聞いていなかった。
姫白龍は氷魔よりも先に亜空間霊界に到着しなければならなかった。何日も休まず走り続けることになるが、姫白龍は魔族の船より速かったので、魔族の第一陣の船団も追い越して、先に亜空間霊界に着けるはずだった。
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