2 天帝釈
降魔軍の遠征開始のあと、鳩摩羅王に地位を譲った天帝釈は世を去ったといわれていた。天帝釈は妖力を持ち、長命であったが、不死の存在ではなかった。鳩摩羅王に全てを託して姿を消したのは、自らの命の尽きる時を見越していたものと思われ、何千年もの間そう信じられていた––––––彼が再来し、巧妙な偽装を見破るまでは。
天帝釈は戦神と崇められ、幾多の敵を倒した。太古に魔族の討伐で名を上げ、特に蛇神族を金剛杵をもって滅ぼしたことは余りにも有名だった。その後降魔軍を組成したのも天帝釈であり、魔族からすれば殺しても殺したりない最大の敵だった。
また、天帝釈は阿修羅族とも気が遠くなるほどの長い年月を戦いに明け暮れた。強力な妖力を持つ阿修羅は、天帝釈の力をもってしても滅ぼすことはできず、戦いは永遠に続いた。
阿修羅族との戦いに嫌気がさした天帝釈は一計を案じ、魔族という共通の敵を使って、阿修羅族の矛先を暗黒界に向けさせた。阿修羅軍は暗黒界に攻め入り、案の定二度と帰ってくることはなかった。毒を持って毒を制する天帝釈の策略は図に当たり、最大の敵、阿修羅族を暗黒界の奥深く葬り去ることができたのだ。
同じ辺境の山岳地帯に住んでいた死霊界の主、ヤマ族を毒を盛って滅ぼしたのも天帝釈だった。軍事力を持たないヤマ族を殺したのは、須弥族よりも高い位置付けにあり、天帝釈の善見城を見下ろす峰に宮殿があったヤマが気に食わなかったからだ。
ただ一人生き残ったヤマの老女と、殺されて肉体を失ったヤマの妖気からすれば、天帝釈は不倶戴天の仇だった。
暗黒剣士カゲリビは須弥族の三十二将全てを斬殺し、武勇をもってなる鳩摩羅王をも斬った。しかし、多くの敵に取り囲まれていたにもかかわらず、天帝釈はしぶとく生き残っていた。
天帝釈が、身を守るために世を捨てて閉鎖空間に隠れ住んだのは賢明な策だった。実際、地位を譲られた鳩摩羅王は、暗黒剣士の手に掛かってとうの昔に果てていた––––––鳩摩羅王は天帝釈の身代わりであり、隠れ蓑だったのだ。
功を遂げ頂点を極めた天帝釈には、これ以上現世の営みに手を汚しても何も得るものはなかった。閉ざされた泡状空間で身の安全を図り、俗世から離れて気楽な暮らしを楽しむに勝るものはなかった。
隠し空間には、天帝釈が心を惑わされた麗しき阿修羅族出身の皇妃もともにあった。阿修羅王の娘である皇妃は、今もなお天帝釈の心をつかんで離さない。
閉鎖空間に隠れてからも、天帝釈は相変わらず、皇妃の我が儘に振り回された。天帝釈がどれほど皇妃のために尽くしても、皇妃は決して満足することはなく、天帝釈のやることなすことに必ず不備を見つけられるのだ。何事にも完全無欠を自負する天帝釈は、皇妃の些細なことをあげつらう才能に辟易としていた。
その類稀な美貌だけではなく、天帝釈ほどの男の心を惹きつけてやまないある種の妖力を持つ皇妃は、長年の阿修羅族と須弥族の戦いの原因となった。
阿修羅王は天帝釈が自分の許可を得ずして娘を娶ったことを略奪とみなし、決して天帝釈を許すことはなかった。己の娘のほうも天帝釈を望んだにもかかわらず、阿修羅王はそんな事情を斟酌することもしなかった。
阿修羅王と天帝釈は終わりなき戦いに明け暮れた。天帝釈は阿修羅王を破ったこともあったが、決して阿修羅王を抹殺することはできなかった。殺したはずの阿修羅王は何度でも蘇り、天帝釈を苦しめ、時には散々に打ち破った。阿修羅王の飽くことなき闘争心こそが、天帝釈をして鳩摩羅王に地位を譲り、閉鎖空間に隠棲することを決断させた大元の原因だった。
天帝釈は阿修羅王が降魔軍の遠征で暗黒界に消えたのち、ようやく心の安寧を得られた。天帝釈が隠棲に入ったのは、阿修羅王との戦いに精魂尽き果てたからだ、と言っても過言ではなかった。
天帝と呼ばれるまでの権勢を誇った王者も、今はただ静かな日々を望んでいたのだ。
天帝釈の偽装を見破ったのはキリタテとイヤシビだった。
キリタテとイヤシビの二人は、静香、マイナミ、姫白龍の出現の時には再凝縮を見合わせた。我の先兵御子神静香は異常だったし、想定外の姫白龍が現れたので、キリタテとイヤシビに影響が及ばぬよう、カクリミが時期をずらしたのだ。
キリタテとイヤシビの再生は、御子神静香とシズカミの対決の後、これ以上の変化がないことを見極めたうえで行われた。待ち望まれていた失われた種族の再来は起こったのだが、それでもやはり正常にはいかなかった。御子神静香が亜空間霊界ではなく場違いな人族の実空間に現れたのと同様、キリタテとイヤシビは魔族の棲息地である亜空間暗黒界に再来した。亜空間暗黒界という点で彼の暗黒剣士と同じ不吉な場所に再凝縮したのだ。
出現した場所を除けば、キリタテとイヤシビの再生は、予想以上にうまく運んだ。御子神静香には記憶がなかったが、キリタテとイヤシビは我の完全な記憶を持って再生した。
一世代前のキリタテとイヤシビは前鬼妃にアニマで攻撃された以前の我の記憶を失っており、武の要素も欠落してしまっていたが、このキリタテとイヤシビは戦闘力を取り戻していただけでなく、我より古い時代の朧げな記憶まで持っていた。即ち今回の再生で我の太古の時代の形態である弥に近づく先祖返りが生じたのだ。
カクリミこと造物師はキリタテとイヤシビが再生してからは、マイナミを一人残して、暫くの間この二人とともにあった。霊山龍神宮は先兵御子神静香が動かす必要があったので、造物師はキリタテがつくった空間に二人の住居をつくった––––––姫白龍が捕まった力場は、キリタテが空間操作で作った小宇宙の外壁だったのだ。
造物師は御子神静香の場合と違ってキリタテとイヤシビの再凝縮には問題はないと思っていた。事実二人は千五百年前の消散以前よりも本来の姿に近づいていた。ただ何故出現した場所が暗黒界であったのかは謎だった。
再凝縮とともに生まれ変わったともいえるキリタテとイヤシビが、何を考え何をせんとするのかは造物師にもわからなかった。造物師は二人に亜空間が置かれている危険な状況を説明し、時空転輪力を使わないように言った。
キリタテとイヤシビは、自らの意志で亜空間暗黒界の泡状化の状況を調査するとともに、姫白龍同様魔将軍の在処を探ろうとして偶然に天帝釈の隠し空間を見つけた。その閉鎖空間は巧妙に隠されていたが、キリタテのような空間操作の権化の目を欺くことはできなかった。
「大物が巣食っていたぞ」
隠し空間の中を覗き見たキリタテは、いつになく興奮した口調で言った。
「ヤマが知ったら驚くでしょうね」
イヤシビもいつも半眼になっている目を大きく見開いた。
「彼の暗黒剣士カゲリビならば迷わず斬り込むだろう」
「私達は暗黒剣士とは違います」
「では見て見ぬ振りをするか?」
「私達には魔族と御子神静香のほうが先決問題でしょう。今はヤマと須弥族のいさかいにかかわっている時ではありませぬ」
「少なくともヤマには知らせてやろう」
「ヤマには白龍の娘がついていますから––––––」
キリタテとイヤシビの間ではそのような話になっていたのだが、その直後に姫白龍が現れたのだ。
造物師は姫白龍を好ましからざる存在と思っていたが、キリタテとイヤシビは、龍の娘に親近感を覚えていた––––––太古の時代の記憶がそうさせた。太古の時代我の前身は白龍ともヤマとも近しい間柄だったのだ。
キリタテとイヤシビは姫白龍を危険な地に送り込んだ。それは裏返せば龍の娘の力を信じていたからだ。二人の見立てでは、真の窮地に立たされた時、姫白龍の秘められた龍の力が顕現するはずだった。
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