1 毘羯羅
霊山龍神宮と伍部浄の軍船は魔街道を抜けて魔族の領土を離れた。しかし、ただ一人魔軍を追って帰ってこなかった者がいた。不敵にも戦闘の最中に魔軍の本陣に潜入していた姫白龍は、退却した甲魔将軍を追跡したのだ。
姫白龍は甲魔将軍についていけば、魔族の中枢に到達できると思った。敵の本隊の所在を突き止め、謎の魔将軍の正体を暴くことが忍びの使命と心得ていた。
姫白龍の魔族を滅ぼすことへの執念は凄まじいものがあったが、決して闇雲に戦うのではなく、知恵を使い、最も効率的に敵を倒すことを考えていた––––––焼魔を毒をもって滅ぼしたのも忍びならではの戦法だった。
暗黒界は奥深く、未知の種族まで含めれば魔族の予備軍は際限なく存在する。いくら我の先兵が強くとも、力づくでは埒があかないことを、姫白龍は知っていた。
魔族の本拠地を知り、魔族を支配する魔将軍を倒さなければけりがつかない––––––
姫白龍は美紀のそばにいて美紀を守りたいという気持ちも強かったが、魔族を倒す自分の使命を果たすためには、一人で魔族の懐に飛び込んでいかなければならなかった。
甲魔将軍は残兵とともに、いくつも亜空間通路を経て亜空間から亜空間へと高速で逃走した。姫白龍は疾風の如く長時間駆けることができたが、魔軍はより高速の亜空間移動を長時間持続することができた。
魔軍のしんがりを姫白龍は必死に追いかけた。
しかし、姫白龍が全力で走っているにもかかわらず、魔軍との距離はいっこうに縮まらなかった。
速過ぎる––––––
姫白龍は敵の亜空間移動の速度に長時間ついていくのは苦しいと思った。
姫白龍はじわじわと引き離され始めた。こちらは目一杯飛ばしているのに、魔軍の後ろ姿が徐々に小さくなり始めた。
このままでは見失ってしまう––––––
気持ちは焦ったが姫白龍にはこれ以上のスピードは出せなかった。
魔軍は小さな点になり、やがて視界から消えていった。
それでも姫白龍はしばらくの間あきらめず追いすがったが、見えない敵を方角もわからない状態で、追い続けるのには限界があった。
くそっ、なんであたしってこうなんだろう。龍は魔族よりも遅いのか。そもそも龍は速く移動する必要がなかったのかな––––––
姫白龍は走るのを止めて立ち止まった。息が切れていた。
あたりは暗黒界にしては薄明のような光があった。所々に草叢のある荒地で、一抱えほどもある太い幹を持ち、空に向かって根を張って、葉が地衣類のように地面を覆っている逆さ木が点々と生えている。地平線のあたりには尖った峰を持った山々の黒い陰が見えていた。
荒涼たる風景の中に取り残されて、これ以上何の手掛かりも得られそうになかった。
悔しいが今日のところは引き返すしかないか––––––
そう思った時、どこかで馬のいななきが聞こえた。小高い岡のむこうからだった。稜線に騎馬の軍勢が見えてきた。
騎馬隊だから甲魔ではない。別な魔族か––––––
姫白龍は太い逆さ木の幹の陰に身を隠した。
隊列が整斉と岡を下ってくる。先頭に見慣れない黄色い三角形の旗印を立てている。
騎馬隊はかつて辺境種族の軍隊の特徴だったが、今では山岳地帯に小規模な部族が残っているだけだ。姫白龍はこの部隊の素性の見当がつかなかった。
近づいてくると騎馬隊の戦士達は魔族らしい恐ろしい形相だった。先頭の騎兵が掲げている三角形の旗印には「毘羯羅」と三文字記されていた。
毘羯羅って夜叉族の将軍じゃないか。これはまさか––––––
正体不明の騎馬隊は、もしかすると暗黒界の奥深く姿を消していた幻の降魔軍ではないかと思われた。普段ものに動じない姫白龍だが、これには珍しく興奮して胸が高鳴った––––––消息が知れなかった降魔軍だとすれば数千年振りの大発見になる。
姫白龍は将軍の毘羯羅自身が騎馬で通り過ぎるのを観察した。毘羯羅は女だったが、その恐ろしい憤怒の形相は夜叉族に間違いなかった。
姫白龍は魔族を追いかけたお陰で、偶然にも謎の降魔軍に遭遇したのだ。
でも、部隊の規模が意外と小さいな––––––
夜叉軍は八万騎を超える大軍だったはずだが、毘羯羅の軍はざっと見て五千騎程度だった。
姫白龍は毘羯羅を呼び止めて話し掛けたい気がしたが、我慢して気付かれないように夜叉軍のあとをつけることにした。
毘羯羅の部隊は山のほうに向かって数時間行軍し、山麓に達したところで止まって野営した。夜になって姫白龍は毘羯羅の幕舎に忍び込んだ。毘羯羅の幕舎で幹部将校との会議があるに違いない。その話からこの部隊と他の降魔軍や魔軍の情報が得られると思った。
しかし、毘羯羅は姫白龍の予想に反して、幕舎には誰も入れず、一人で祭壇に燭台をいくつも並べ、その前に座って一つ一つに火を灯し始めた。燭台は十二あり、十一人の仲間の神将と夜叉族の王、瑠璃光王の名が彫られてあった。
毘羯羅が真言を唱えるごとに、炎の中に十一人の神将の姿がゆらゆらと現れ、最後に瑠璃光王の幻影が現れた。
「降魔軍の出陣から早六度目の龍玉の年を迎えた。我一人残り、魔将軍と雌雄を決すべく、機会を求めて暗黒界を彷徨い、今日に至れり。夜叉王と諸将よ、今こそ積年の恨みを晴らすべく、我毘羯羅に力を与えよ」
夜叉族の王と十一人の神将は全て魔将軍に討たれて死んだ。毘羯羅は死んだ者達の妖気を呼び出して、勝ち目の薄い魔将軍との戦いに、夜叉族を挙げた力を喚起しようとしていたのだ。
夜叉族の妖気は何も言わなかったが、それぞれの武器を構えて戦う姿勢を見せて毘羯羅を力づけた。
夜叉族の妖気はどれ程の力を持っているのか姫白龍には疑問だった。ヤマの妖気のほうが強いと感じたし、鵬城に封印されていた夢魔とは比べものにならなかった。毘羯羅もそれはわかっていたが、魔将軍と戦うためには、どんな僅かな助けでも必要としていた。
毘羯羅は姫白龍同様魔族を滅ぼすことを目的にして生きていた。夜叉族は政治的で謀略に長けた須弥族とは違って、純粋な戦闘集団だった。勇猛な夜叉軍の中でも毘羯羅は最強の猛将だった。その点で姫白龍は毘羯羅に共感を覚えた。
白龍は龍族の中で唯一降魔軍と行動をともにした。そして姫白龍も降魔を目的として生まれてきた。生まれながらの降魔戦士の姫白龍にとって、毘羯羅は志を同じくする降魔の同志だったのだ。
姫白龍は勝ち目の薄い戦いに臨もうとしている毘羯羅を、何とか助けたいと思った。
燭台の炎から幻影が消え去って毘羯羅が一人になった時、姫白龍は姿を現して毘羯羅の背後に立った。
毘羯羅は気配を悟らせずに自分の幕舎に忍び込んで背後を取った者の顔を見るべく、ゆっくりと振り向いた。毘羯羅の額の第三の眼は閉じられていた。
姫白龍は大柄な毘羯羅が座ったままでも目線の高さが合うような小娘だった。
「私は姫白龍、辺境の捷鬼党忍軍の忍びで白龍族の者だ。魔族と戦うことを旨とし、焼魔にユカの毒を盛って滅ぼした。今は亜空間霊界の我の先兵らとともに、魔族と戦っている。我の先兵とその軍団は甲魔軍と戦って破った。あたしは敗走した甲魔軍を追跡してきたのだが、甲魔の亜空間移動についていけず、見失ってしまったのだ」
姫白龍にしては必要十分に挨拶した。
毘羯羅は不敵な侵入者をまじまじと見据えた。鋭い目をした小柄な娘は、丈の短い着物の下に鎖帷子を着込んで腰に短剣を下げた忍びの出で立ちだった。
夜叉族の将軍は、伍部浄のようにはなから姫白龍を小娘扱いにはしなかった。外見がどうであれ、中に潜んでいるものに意味があることを、毘羯羅はよくわきまえていた。毘羯羅の幕舎に一人で潜入してくる術と豪胆さはただ者ではなかった。
毘羯羅は印を結び、白龍の真言を唱えた。
オン・ソラソバテイエイ・ソワカ
姫白龍の背後に龍の幻影が浮かび上がった。人の姿をしていても姫白龍の本性が龍であることは明らかだった。毘羯羅には白龍の娘が存在していること自体が驚きだった。毘羯羅は印を解いて龍の幻影を消した。
「龍の娘よ。白龍が消え去ってから久しく、私も長年その姿を見たことがない。私が白龍について知っていることは限られていて、いずれも情報として聞いた話だけだ。かつて白龍は最も恐るべき妖力を持つ夢魔と呼ばれる魔族と戦った。白龍は夢魔の肉体を滅ぼしたが、それと引き換えに夢魔の妖力で心と言葉を失ったという。そのため白龍は姿を消し、その後の消息についてはついぞ聞いたことがない」
毘羯羅は姫白龍が消えた白龍を探しているものと思ったようだった。
「夢魔は鵬城に何者かの手で封印されていた。封印が破られた時、あたしの友達の夢術師の美紀が、夢魔の精神を破壊して無力化した。夢魔はもう死んだも同然だ。
あたしの目的は魔族の抹殺だ。捷鬼党は焼魔を毒で殺した。龍軍は氷魔を殲滅した。我の先兵は甲魔を破った。でも魔族はいくらでもあとからあとから湧いてくる。出てくる魔族をいちいち相手にしていては拉致があかない。あたしは魔族の中枢の在処と魔族を仕切っている魔将軍の正体を探り出して、それを滅ぼすつもりだ。統制を失えば魔族は烏合の衆だ。各個撃破することは割と簡単になる」
大それた姫白龍の目論見に毘羯羅はにやりとした。
「大変威勢がいいことだ。龍の娘ならばさもありなん。狙いとするところは当を得ている」
毘羯羅自身、夜叉軍の残存兵力が少ない中、魔族の大部隊との戦いを避け、ひたすら魔将軍との直接対決の機会を探し求めていた。夜叉軍に膨大な数の魔軍との消耗戦を続ける余裕はなかった。
毘羯羅は魔将軍の強さを嫌というほど知っていた。夜叉王と十一人の神将を斬った相手ともし戦う機会が得られたとしても、毘羯羅に勝算はなかった。しかし、魔族の雑兵の大軍と戦って死ぬのは犬死だが、魔将軍に一太刀でも浴びせられれば、武将として意味のある死に方になると思っていた。
この毘羯羅とて夜叉軍最強の将、命と引き換えに魔将軍の腕の一本や二本削ぎ落してくれよう––––––
毘羯羅の心中に燃えている闘志を姫白龍は感じ取った。
「あたしは魔軍の本拠地に忍びこんで敵の情報を探り、我の先兵に勝機をつくり出す。我の先兵の強さは半端じゃない。まともに戦って魔将軍を倒せるのは我の先兵だと思う」
「亜空間霊界の種族は降魔軍に加わらなかった。我が参戦しているとは驚きだ」
毘羯羅の我に関する情報は恐ろしく古かった。
「我は前の龍玉の年には魔族の大軍を時空転輪力で消し飛ばした。我の先兵は一人でも大軍を相手取ることができるうえに、今回は神兵の大軍団を持っている。こちらには夢魔を倒した夢術師もいる。夜叉軍が無理して単独で魔軍に当たる必要はない」
「我の先兵と合力できるならそうしたい。我ら夜叉軍は戦力があまりにも足りない。魔将軍の在処を探す一方で、どこかに阿修羅軍がまだ存在して力を合わせることができないものかとずっと思い続けてきた」
「魔軍の中枢がどの辺にありそうか、見当がついているなら教えて欲しい」
「それは私も一番知りたいところなのだ。魔将軍はいつも突如戦場に現れ、将を斬ると忽然と消え去って跡を辿れないのだ。魔族でさえ魔将軍の在処を知っているのかどうかわからない。魔将軍とはそういう相手だと思っておかないといけない。
今いるこの空間は魔軍の中枢部への通り道の一つだと思う––––––事実ついさっき甲魔軍がここを通過した。だからと言って甲魔軍を追撃すれば、魔将軍に行きつく前に戦闘になってしまう。魔将軍の在処はつかみづらく、近寄り難い。何とか移動経路で捕捉する機会を狙っているのだ」
「あたし一人ならどんなところにでも忍び込める。ただあたしには甲魔軍が速過ぎて追い切れなかった」
「魔将軍は甲魔よりも遥かに速い。その動きは正に神出鬼没だ」
それを聞いて姫白龍はがっくりきた。
甲魔にさえ振り切られた自分の足では、それほど速い魔将軍を追跡することは不可能だ––––––
「一つ手掛かりになるかも知れない不可解な場所がある。霧の森の中で偶然に見つけた。入口も出口もない構造物で、不思議な素材でできている。何者かが空間操作して作ったものだ。魔将軍の秘密と関りがあるような気がしているのだが、中に入る術がなく調べようもない」
「あたしにやらせてみて欲しい」
姫白龍は手掛かりになりそうなことはどんなことでも見逃さなかった。
「危険なものかも知れない」
「危険は元より承知」
姫白龍は毅然として言った。
毘羯羅は霧の森への経路を詳しく説明し、遠い道程だから馬がいるだろうと言って、姫白龍に一頭の赤毛の駿馬をくれた。
姫白龍は突然忍び込んできた侵入者にそこまでしてくれる毘羯羅の鷹揚さに心を打たれた。
「魔将軍との戦いを急ぐ必要はないよ。我の先兵とその軍団は魔街道の近辺まで来ているんだから」
姫白龍は毘羯羅が単独で魔将軍と戦って死んで欲しくなかった。
毘羯羅はにやりと笑った。
「馬の名は赤夜叉だ」
姫白龍は毘羯羅に礼を言い、与えられた馬に乗って目的地を目指した。驚いたことに、毘羯羅がくれた馬は亜空間移動で駆けた––––––高速の魔軍と戦うために降魔軍が使っていた古代馬だった。
これなら魔族よりも速く移動できる––––––
移動速度で魔族に遅れを取ってきた姫白龍にはこの上ない贈物だった。
数時間走り続けて姫白龍は毘羯羅が教えてくれた霧の森に辿り着いた。
その名の通り、森の木々もよく見えないほど濃密な霧が澱んでいて、霧というよりは雲海に近かった。
「赤夜叉、ここからは森が深いからあたし一人でいく。悪いけどここで待っててくれる?」
赤夜叉は言葉を解するので鼻づらでうなずいた。
「一日待ってあたしが戻らなければ毘羯羅のところに帰っていいから」
姫白龍はそう言い置いて、気配を消して森の中に入っていった。
霧が姫白龍の姿を隠してくれるのはよかったが、敵がどこかに潜んでいてもこちらも見逃すかも知れなかった。姫白龍はいつでも戦えるように短剣を脇に構えて進んでいった。
森の中には、湧き水でできたと思われる青や緑の沼が点在していた。沼に行く手を阻まれるので、回り道をしているうちに、どちらの方角に進んでいるのかわからなくなってくる。
沼の中で時折水が撥ねる音がする。姫白龍は音をさせているものがただの魚であって欲しいと思ったが、確認の仕様もなかった。
何の目印もなく、獣道さえなかった。姫白龍は一番高そうな木に登ってみたが、霧は木の天辺まで覆っていてまるで視界がなかった。
木から降りて困り果てていた時、姫白龍は霧の中にぼんやり光るものを見つけた。よく見るとそれは霧のせいで輪郭がぼやけているが、小さい子供の姿に見えた。
光る子供?こんなところに––––––
妖魔だとすれば見掛けの姿に惑わされてはいけない。しかし、初めて見つけた手掛かりなので逃がすわけにはいかず、姫白龍はその光のほうへむかっていった。
光る子供は姫白龍に感づいたのか、姫白龍から逃げるように移動し始めた。姫白龍はあとを追ったが、子供は動き始めるとすばしっこくて速かった。木に邪魔されながら、姫白龍も見失わないように懸命に追いかけた。
追いかけているうちに姫白龍は青白く光る壁に突き当たった。どこへいったのか光る子供の姿は消えて見えなくなった。
姫白龍は壁の前に一人取り残された。
この中に入ってしまったのだろうか––––––
周囲を探ったが、あたりには何者の気配もなかった。
壁と思ったものは、白く発光する半球形のドームで、径が五十メートルほどあり、小山のように盛り上がっていた。霧はこの大きな構造物をすっかり覆って隠していたのだ。
それは自然に存在するものではなく、毘羯羅が言っていたように何者かが何かの目的のために作ったものに違いなかった。
青白く発光している壁は、手で触れて見ても物質なのかエネルギーなのかさえわからなかった。指で押すとへこむような柔らかい質感があるが、短剣で突いても傷もつかず元に戻ってしまう。柔軟だが剛直な金属や岩石よりも、外部からの侵入を固く拒絶している障壁だった。
これは上部構造だけでなく、地中まで続いているのだろうか––––––
姫白龍は短剣を腰の鞘に収め、地面の土に同化して地中まで調べたが、どうやら球体のようでどこにも開口部を見つけ出せなかった。
いったい何だろう。魔将軍が妖力で作った基地だろうか。それともまた妖魔を封印してある場所かな––––––
鵬城での夢魔の経験が思い出された。外部からの侵入を拒絶しているのか、内部に閉じ込められたものを堅く封印しているのかわからなかった。
姫白龍は自分の術で壁を抜けるしかないと思った。姫白龍はどんな相手であれ物であれ、その中に忍ぶ術を持っていた。
もしこの壁に同化できれば、向こう側に抜けられるはずだ––––––
姫白龍は思い切って青白く発光する壁の中に入った。中に入ると直ぐにそれは物質ではなく、一種の力場であることがわかった。ものの中に同化して潜むのとは勝手が違った。姫白龍はその力場に捉えられ、進むことも引くこともできなくなった。
力場は粘着質の繭のように体に纏わりついて姫白龍の自由を奪った。手足を動かすこともままならず、短剣を抜くにも手が届かなかった。姫白龍は蜘蛛の巣に捕えられた蛾の気持ちがよく分かった。
ひょっとしてこれは本当に蜘蛛の巣なのだろうか––––––
嫌なことが想像された。巨大な蜘蛛か、あるいは蜘蛛の力を有する魔族かも知れなかった。ものに動じない姫白龍も流石に焦った。
龍ならこんな時なにか力が出るんじゃないかな––––––
そう思ったが何も起こらなかった。繭は次第に固まって一層強く締めつけてきた。
駄目か––––––
身動きできなくなって諦めかけた時、何者かが向こう側から姫白龍の腕をつかんだ。巣の主の蜘蛛が現れたかと思わず身を縮めた時、姫白龍は強い力で力場から引っぱり出された。
うわっ
姫白龍の体は壁の内側に飛び出した。
姫白龍を壁から引っ張り出したのは、幸いにして大きな蜘蛛ではなく、気品のある美丈夫の剣士だった。
中は庭や池が巧みに配された宮廷風の優雅な建築だった。外からはドームに見えたのに、内部には明るい空があった。姫白龍が自分の足で立ったので、相手は手を離した。
「大丈夫か?」
剣士は落ち着きのある声で言った。
妖獣か恐ろしい面相の魔族を想像していた姫白龍は一瞬言葉に詰まった。
「白龍の娘か」
相手は姫白龍の正体を見抜いていた。
「お前は魔族か?」
言葉に出してから自分でも間が抜けた質問だと思った。魔族に斯様な美しい種族がいるとは思えなかった––––––毘羯羅の率いる夜叉族のほうが遥かに恐ろしい面相で魔族に近かった。
相手の剣士はそれには答えず、掌をかざして白い光線を姫白龍の頭から足の先まで走らせた。姫白龍は自分の体が透視されたのを感じた。
「龍の組成に暗黒剣士の魂を入れ込んだようだ。時空流動体も残っている––––––手が込んだ細工をしたものだ」
剣士はそばにいた女剣士にむかって言った。
艶やかで美しく、優し気な微笑みを浮かべている。女剣士の後ろに緑色の小さな子供がいた。姫白龍はそれがさっき追いかけた光る子供だと思った。
姫白龍は剣士の話し振りから、相手の素性を察した。
「お前達は彼だな」
「我と彼のどちらかといえば、彼かも知れない。しかし、我と彼はもはやいずれも意味をなさなくなった」
謎めいた答えだったが、姫白龍の勘はほぼ当たっていた。
「あたしは龍族で捷鬼党忍軍の姫白龍。魔将軍と魔軍の中枢部の在処を探している。彼に用があって来たんじゃない」
「魔将軍の正体と所在については私達にもわからない」
「彼は昔から魔族と通じていたのでは?」
「彼は魔族とは無縁だ。私達は、むしろヤマの老女とは長い付き合いだ」
姫白龍はそれを聞いてかなり安心した。
ヤマの老女の知り合いなら敵ではなさそう––––––
「龍の娘が魔族を敵とするのはよくわかる。魔将軍のことはわからないが、一つおもしろいことを教えてあげよう––––––ヤマの老女も知りたがるに違いないことを」
姫白龍はヤマの仇敵須弥族の先帝、天帝釈がまだ生きていることと、その在処を明かされた。降魔軍の首謀者であり、ヤマ族を毒殺した張本人がまだこの世にあり、巧みに隠された閉鎖空間に隠棲しているというのだ。
「あたしが自分で行ってこの目で確かめてくる」
姫白龍は勇み立った。
女剣士が姫白龍に歩み寄った。我の先兵に少し似た雰囲気があったが、御子神静香が外見に似合わず男性的なのに対し、この女剣士は優しい慈悲のある眼差しでずっと女らしかった。
女剣士は玉のついた簪を二本姫白龍に手渡した。
「赤い玉で閉鎖空間への亜空間通路を開閉させられます。青い玉は万一の時のために」
「これは我の先兵が使う反物質弾みたいに見える」
「そうですがずっと小粒なものです。でも閉鎖空間全体を消し飛ばす力がありますから気をつけて使ってください」
女剣士は恐ろしい武器を渡しておいて、まるで観音菩薩のような笑みを浮かべた。
「我の先兵とはどういう関係なのだ?」
二人は顔を見合わせた。
「実は私たちも知りたいのだ。我の先兵の状況についてはカクリミから聞いてはいるが––––––」
姫白龍は彼の二人と静香との関係が微妙であることを悟った。
姫白龍が明確に知り得たのは、彼の二人はヤマの老女の味方であることだった。そして天帝釈に関する情報は、魔将軍の情報に匹敵するほどの価値があった。
気がつくと壁にちょうど姫白龍が通れるだけの通路が開いていた。
「あたしは姫白龍」
もう一度名乗れば相手も名乗ると思った。
「私はキリタテだ」
男の剣士が言った。
「イヤシビ」
女剣士も名乗った。
「木霊が道案内しますから、ついていけば霧の森を抜けられます」
姫白龍は二人に会釈して不思議な力場の外へ出た。木霊が体に光を灯して先に立った。さきほど追いかけた光る子供は道案内だったのだ。
赤夜叉は草を食んで姫白龍の帰りを待っていた。
「赤夜叉、お待たせ。面白いことになってきたよ」
姫白龍は赤夜叉の背に乗って、天帝釈の隠し空間への道順を説明した。
行先を理解した赤夜叉は高速の亜空間移動で疾駆し始めた。
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