第7話:不良債権の請求と獅子の盾
不毛であったヴァイス領に、奇跡の芽吹きが訪れていた。農業協同組合の試行により、村々の景色は着実に変わりつつある。だが、平穏という名の資産は、得てして外部からの「略奪」という負債を呼び寄せるものだ。
領主館の執務室。窓の外には、王都の紋章を刻んだ一台の豪奢な馬車が停まっていた。
カナリス・ヴァン・ベルクは、眼鏡をかけ直した。目の前には、王都から遣わされた二人の男が座っている。一人は法を司る公証人ペルティエ、もう一人は数字を狩る徴税吏ヴォークリューズ。二人の纏う空気は、この最果ての地には不釣り合いなほど冷たく、傲慢であった。
ヴォークリューズ:「……さて、ベルク殿。事務的な確認は済ませました。本題に入りましょう。あなたの実家であるベルク男爵家が、メルシエ侯爵家に対して負っている膨大な借財。その債権は現在、あなたの元夫であるロラン・ド・メルシエ殿がすべて買い取っております」
公証人ペルティエが、仰々しく羊皮紙の束を広げた。そこには、カナリスの父が署名した多額の借用証書の写しが並んでいる。
ペルティエ:「男爵家には返済能力がありません。そこでロラン殿は、法に則った『債権の履行』を求めておいでです。すなわち、担保価値のある唯一の資産――カナリス・ヴァン・ベルク、あなたの身柄を労働力として回収するという要求です」
カナリスの指先が、微かに震えた。内心で、彼女は冷徹に状況を分析する。 (……最悪のタイミングね。ロランは私がここで実績を上げていることを聞きつけた。私を連れ戻すことで、ヴァイス領の成長を横取りし、同時にメルシエ家の資金繰りを改善させるつもりだわ。私を人間としてではなく、収益を生む『無形資産』として再評価したというわけね)
カナリス:「……お断りします。私はすでにロラン様とは離縁した身。王令第24条第3項に基づき、私は『単独活動の権利を持つ女』としての地位を確立しています。私は誰の所有物でもありません」
カナリスの声は静かだったが、その言葉には明確な拒絶が込められていた。だが、公証人ペルティエは薄笑いを浮かべ、さらに別の書類を突き出した。
ペルティエ:「残念ながら、その主張には法的な『綻び』がございます。王都の慣習法においては、親族全員の合意なき離縁は、財産権の移動に関して制限を受ける。……あなたの離縁は、ベルク男爵家の長老たちの正式な承認を経ていない。ゆえに、あなたは未だメルシエ家の『潜在的負債』の一部であり、身分上の自立は認められないというのが、王都法学府の解釈です」
(……バカげた解釈だわ。古い慣習法を持ち出して、成文法の効力を上書きしようとするなんて)
カナリスは論理的に反論しようとした。だが、男たちの放つ「お前はただの道具だ」という無言の圧力が、彼女の脳裏に忌まわしい記憶を呼び覚ました。
視界が、一瞬だけ白く濁る。
それは前世の記憶。窓のない狭い事務所。鳴り止まない電話。上司からの「お前は組織の一部品だ」という罵倒。自分がどれほど誠実に帳簿を正しても、結局は使い捨てられる歯車でしかないという、学習性無力感。
(……ああ、またこれなの? 私はどれほど数字を尽くしても、結局は誰かの帳簿の中の『備品』として扱われるだけ……?)
息が浅くなる。喉の奥が熱くなり、指先が冷たく凍りつく。前世で命を使い果たした時の、あの絶望的な疲弊感がフラッシュバックした。
グロック:「――おい。勝手に他人の屋敷で、ゴミみたいな紙を広げるな」
執務室の空気を切り裂くような、野性味溢れる声。
扉を蹴破らんばかりの勢いで現れたのは、ヴァイス領主グロックであった。
グロックは使者たちの返答を待たず、カナリスの隣にどっかと腰を下ろした。そして、彼女の震える手からペンを奪い取ると、それを放り投げた。
ヴォークリューズ:「……領主閣下。これは王都の法に基づく正当な手続きでございます。辺境の騎士が口を挟む余地は――」
グロック:「理屈は後だ」
グロックはヴォークリューズの言葉を地を這うような低音で遮り、上体を乗り出して彼を威圧した。
グロック:「王都の法がどう言っているかは知らん。だが、このヴァイス領には、俺が定めた『理』がある。……カナリスを奪うということは、この地の民の腹の中身を奪うことと同義だ。この女が計算し、この女が種を撒く順序を決め、この女が市場の淀みを正したから、俺の民は笑えるようになった」
グロックはカナリスの肩に手を置いた。その熱が、彼女の凍りついていた意識を現実へと引き戻す。
グロック:「ヴォークリューズと言ったか。お前の目の前にいるのは、『メルシエ家の不良債権』じゃない。ヴァイス領の『銭の理』そのものだ。……俺の民から食い物を奪おうとするなら、紙切れではなく、この辺境の剣が相手をする。……次、その女を道具のように呼んでみろ。その首と胴体を切り離してやるぞ」
グロックの圧倒的な覇気に、王都からの使者たちは、先ほどまでの傲慢さをどこかへ置き去りにして青ざめた。
グロックは無造作に立ち上がると、カナリスを促し、自分の座っている「領主の椅子」――獅子の装飾が施された執務机の主賓席に、彼女を座らせた。
グロック:「カナ、お前は計算を続けろ。この古狸たちの相手は、俺がやる。……お前の数字が、この地を救う唯一の魔術だと俺は信じている。誰にも、指一本触れさせん」
カナリスは、獅子の椅子に深く腰掛け、ゆっくりと呼吸を整えた。 眼鏡の奥の瞳に、再びプロの鋭い光が戻る。
(……そうね。私はもう、使い捨てられる歯車じゃない。この地の『理』を支配する実務家として、ここに立っている。……グロック、あなたが私の盾になってくれるというのなら、私はあなたの最強の『矛』になりましょう)
カナリスは、震えの止まった手で再び筆を握った。
カナリス:「……ペルティエ殿。法務上の解釈について、議論の余地は多分にあります。慣習法が成文法を上書きするには、過去100年の判例における一貫性が必要なはずですが、第4回評議会の記録とは矛盾していませんか? ……それと、先ほど仰った債権の履行についてですが、メルシエ侯爵家の直近の資金繰り表を拝見してもよろしいでしょうか。不当な要求を突きつける前に、あなたたちの家の『破綻リスク』を精査させていただきたい」
淡々と、しかし逃れようのない論理の礫。 グロックの放つ「物理的な威圧」と、カナリスが展開する「論理的な包囲網」。二つの力が融合した執務室で、王都の使者たちは、もはや一刻も早くこの場を立ち去りたいという恐怖に支配されていた。
*
使者たちが這々の体で去った後、沈黙の流れる執務室に、夕日が差し込んだ。
グロック:「……カナ。あいつら、また来るぞ。ロランとかいう無能、しぶとそうだ」
カナリス:「ええ。今回は追い払えましたが、ロランは法的にも経済的にも、さらに大きな圧力をかけてくるでしょう。宗教裁判や、王室への直訴。手段を選ばないはずです」
カナリスは帳簿を閉じ、グロックを見上げた。
カナリス:「閣下、次の段階へ進みます。……この領地の『経済的自立』を確固たるものにし、王都の介入を物理的に不可能にするための証拠を固定しなければなりません。……まずは、隣領との境界紛争を『測量データ』で終わらせ、この地の価値を法的に確定させます。それが、ロランに対する最大のカウンターになります」
グロック:「測量データ、か。相変わらずお前の戦い方は俺にはわからん。……だが、いいだろう。お前のやりたいようにやれ。俺はただ、お前の盾としてここに立ち続けてやる」
カナリスは眼鏡を直し、微かに微笑んだ。それは、かつての「愛想のない会計士」が見せる、初めての「意志ある共鳴」であった。
自己資本比率100%の人生を勝ち取るための戦いは、ここからが本番であった。




