第6話:豊穣の巡りと大地の契約
ヴァイス領の農村部には、目に見えない壁があった。
カナリス・ヴァン・ベルクは、泥濘に足を取られぬよう裾を捌きながら、村の共同放牧地へと向かっていた。隣を歩くのは、相変わらず無遠慮な距離感で上体を揺らす領主グロックだ。
グロック:「……なぁカナ、さっきから見て回っているが、ここの連中の顔はまだ暗い。代官を追い出し、計量器を正しても、肝心の麦が育たなきゃ冬は越せんぞ」
カナリス:「……ええ。理由は明白です。領主閣下、あそこの畑を見てください。一軒の農家が、痩せた牛を一頭だけ繋いで、木製の旧式な犂を引いていますね」
カナリスが指差した先では、農民が必死に土を掻いていたが、その溝は浅く、北の硬い大地を十分に反転させるには至っていない。
カナリス:(典型的な設備投資の失敗ね。前世の信金時代、規模の経済を無視して高価な機械を個人で買おうとする中小企業の社長を何人も見てきたわ。……この地で真に必要なのは、鉄製の重量有輪犂と、それを引くための八頭立ての牛。だけど、そんな数千万クラスの重機に相当する資産を、貧農が一軒で抱えられるはずがないわ)
グロック:「鉄の犂か。ありゃあ凄まじい実りをもたらすが、値段も凄まじい。俺の親衛隊の鎧が何セット買えるか分からんぞ。村に数台配ってやれればいいが、今のうちの金庫は、お前が暴いた通り空っぽだ」
カナリス:「配る必要はありません。それは『施し』であり、持続可能な『経営』ではありませんから」
カナリスは村の中央広場にある大きな古樫の木の下で足を止めた。そこには、彼女が事前に呼び集めておいた村の長老たちと、働き盛りの農民たちが当惑した面持ちで集まっていた。
カナリス:「皆さん。本日、私が提案するのは皆さんの農具と牛を、村全体で順番に使い回す仕組みです」
長老の一人:「使い回す……? ベルク殿、何を仰る。犂も牛も、代々自分の家の財産として守るのが筋でしょう。人の家の牛を借りて畑を耕すなど、不吉な」
カナリスは感情を排した無機質な声で、長老の言葉を遮った。
カナリス:「……そうですね。その『筋』を通した結果、皆さんの畑の収穫量は種籾一粒に対し三、四倍に留まっている。それが現在の確定した数値です。土の底にある養分に届かぬ犂を使い続けるのは、先祖への敬意ではなく、単なる『非効率の維持』でしかありません。……感情で非効率を正当化するのは自由ですが、その代償を支払うのは、飢えに直面する皆さんの子供たちですよ」
村人たちが息を呑む。カナリスは構わず、懐から取り出した数枚の木札を、用意させた掲示板代わりの板に並べ始めた。
カナリス:「これを見てください。文字は読めなくても、この図形なら理解できるはずです」
彼女が示したのは、色分けされた石と木札による「工程管理図(共同耕作カレンダー)」だった。
カナリス:「ここにある『牛のマーク』の札は、領主館が今回、特別に一括購入する八頭の屈強な牛と、最新の鉄製重量犂を指します。……一軒では買えなくても、村全体……つまり『農業協同組合』として利用料を積み立てれば、最新の設備を維持できます」
農民:「だが、種まきに一番いい時期はみんな同じだ! 誰が先に牛を使うかで喧嘩になる!」
カナリス:「ですから、このカレンダーで『理』を正すのです。……日照と水はけ、土壌の乾きやすさを私が数値化しました。この『丘の上の区画』から順に牛を回すのが、領地全体の期待利益を最大化する最短ルートです。……順番が後になる家には、貸付金の利息を免除し、代わりに翌年の順番を優先します」
カナリスは帳簿に視線を落とし、指で計算の行末を丁寧になぞりながら言葉を続けた。彼女の所作には、一切の迷いがない。
カナリス:「……これは感情の貸し借りではありません。確定した数値に基づく『契約』です。牛一頭を死なせれば、村全体の収益が十五パーセント下がる。そのリスクを全員で分散し、得られた余剰の収穫を『共済金』として積み立てる。……これで、皆さんは凶作の年でも、種籾を食いつぶさずに済みます」
グロック:「……おい、カナ。細かいことはわからんが、お前が並べたその木札の通りに動けば、こいつらは来年の春、今まで見たこともないような黄金の麦畑を拝める……そういうことだな?」
カナリス:「……ええ。私の計算に間違いがなければ、収穫量は最低でも二倍。豆類の混作による地力回復を組み合わせれば、三年度目には自律した経済圏としての黒字化が可能です」
グロックはニヤリと笑い、呆然とする農民たちの肩を叩いた。
グロック:「聞いたか、お前ら! この女がこう言ってるんだ。嘘だと思うなら、来年の収穫祭で俺を馬鹿にするがいい。だが、こいつの『理』に乗る度胸があるなら、今すぐその判子代わりに、この板に指を押し付けろ!」
グロックの覇気と、カナリスが提示した「逃れようのない利益」の前に、農民たちは一人、また一人と重い腰を上げた。
カナリス:(……よし、……これで農業協同組合の第一段階は完了ですね。既存のリソースを組織化で最適化する……)
*
数ヶ月後。
ヴァイス領の噂は、風に乗って王都へと届いていた。 「北の死地を、一人の無愛想な女が黄金の地へと変えた」 「魔法も使わず、ただの木札と算術だけで、飢えを消し去った魔術師がいる」
王都、メルシエ侯爵邸。
贅を尽くした執務室で、ロラン・ド・メルシエは手元の報告書を震える指で握りしめていた。 傍らに侍る美しい愛嬢が、不安げにその横顔を覗き込む。
ロラン:「……信じられん。あの、可愛げのない計算機のような女が……辺境伯の下で、これほどの富を生み出しているというのか?」
ロランの経営する侯爵家の財政は、彼の放蕩と不倫相手への貢ぎ物によって、今や火の車だった。カナリスがいなくなった後の帳簿は、もはや彼には解読不能な「淀みの塊」と化している。
不倫相手:「ロラン様……? どうかなさいましたか?」
ロラン:「黙れ! ……あの女は、私のものだ。ベルク家の借金を肩代わりした際、あの女の身も、才も、すべてこの私が買い取ったはずだ」
ロランの瞳に、歪んだ独占欲と、追い詰められた者の邪悪な光が宿る。
ロラン:「……黄金を生む鶏を、野に放したままにはできん。使いを出せ。不当に奪われた『我が家の所有物』を連れ戻すとな。……今やあの女は、我が家を破産から救うための、最高の『担保』だ」
王都から北へ、一通の不穏な「法的通告」を携えた使者が放たれた。
それは、カナリスが求めていた「自己資本比率100%の人生」を脅かす、過去という名の不良債権からの挑戦状であった。




