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愛想がないと結婚0日目に離縁されたアラサー会計士 ~複式簿記で辺境領地を再建します~  作者: かな


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第8話:氷の配給と沈黙の略奪

ヴァイス領の記録庫。かつて「情報の墓場」と呼ばれたこの地下室は、今やカナリスの徹底した管理により、この領地で最も「真実」に近い場所となっていた。

カナリス・ヴァン・ベルクは、ロウソクの火が細くなるのも構わず、最新の在庫台帳に筆を走らせていた。彼女が導入した「古いものから順に吐き出す仕組み」により、倉庫に眠る穀物の鮮度と正確な量は、かつてない精度で可視化されている。

だが、その「真実」が、彼女の胃を冷たく締め付けていた。

カナリス:(……信じられない。計算が合わないわ。いえ、計算は合っているけれど、現実が冷酷すぎる)

カナリスの脳内では、前世の信金時代に培った統計データの解析が高速で回転していた。

カナリス:(農業協同組合による収穫増は確かに出ている。けれど、この領地の人口動態と冬の平均的なエネルギー消費……つまり、暖を取るための薪の確保に伴うカロリー消費の増加を考慮すれば、現在の消費ペースはあまりに放漫すぎる。このままでは、二月の半ばには倉庫が空になる。来春の植え付けに必要な種籾を食いつぶすのは時間の問題ね。それは、この領地の『経営破綻』……つまり、来年全員が餓死することを意味する)

重い鉄の扉が開き、グロックが顔を出した。その目が、カナリスの青ざめた横顔を一瞬で捉える。

グロック:「カナ、そんな顔で数字を見つめるな。……何があった。あいつら徴税吏の嫌がらせを思い出したか?」

カナリス:「閣下……。いえ、あんな過去の不良債権は、もう私の帳簿には残っていません。……問題は、この地の『冬』です」

カナリスは、羊皮紙の上に並ぶ冷徹な数字を指でなぞった。

カナリス:「閣下、定刻ですので報告します。現在の備蓄量と、民たちの消費ペースを突き合わせた結果、来春まで命を繋ぐための『余白』が全く足りないことが判明しました。このままでは、冬の最中に種籾すら尽き、来年は一粒の麦も収穫できなくなります。理に照らせば、現状の配給を三割削減しなければ、この地は全滅します」

グロックは帳簿の中身を理解しようと、眉間に皺を寄せて数字の列を凝視した。

グロック:「三割、か。……カナ、あいつらは今、代官がいなくなって腹一杯食えるようになったと喜んでいる。祭りの準備まで始めようとしている。そんな時に『食い物を減らせ』と言えば、どうなるかわかっているな?」

カナリス:「ええ。ですが、感情で数字を動かすことは不可能です。来春に誰もいない黄金の麦畑を眺めたいのでなければ、今すぐ手を打つべきです。これは、この領地という巨大な組織を存続させるための、唯一の生存戦略です」

グロックは深く溜息をつき、椅子を鳴らして立ち上がった。

グロック:「……わかった。広場に鐘を鳴らせ。お前の『数字』がそう言うなら、それがこの地の『真実』なんだろう。だがなカナ、これだけは覚えておけ。腹を空かせた民は、帳簿の整合性なんかじゃ納得せんぞ」

村の広場。冷たい風が吹き抜け、冬の訪れを予感させる空の下に領民たちが集められた。

吐く息が白い。石畳の隙間から這い上がる冷気が、裾から容赦なく体温を奪っていく。広場の端では、ひび割れた手を擦り合わせながら立つ老人の姿があった。

カナリスは、グロックの隣で壇上に立った。彼女の手には、村の全世帯の構成と備蓄量を記した、詳細な計算書がある。

カナリス:「領民の皆さん、静粛に。……現在の備蓄状況を精査した結果、冬を越すための食糧配分を、明日より現状の七割に制限することを決定しました。これは、来春の種籾を確実に守り、この地の全滅を防ぐための措置です」

一瞬の静寂。その後、地鳴りのような罵声が沸き起こった。

領民A:「三割も減らすだと!? せっかく不作から脱したと思ったのに、何を言ってやがる!」

領民B:「王都から来た女の言うことだ、信じられるか! 俺たちから麦を奪って、王都に隠し持っている自分の贅沢のために売ろうとしているんじゃないのか!」

領民C:「そうだ! 代官より酷いじゃないか! あの女は、俺たちの空腹を数字という名の鎖で縛るつもりだ!」

領民たちの怒りは、目に見える形で膨れ上がっていった。彼らにとって、明日得られるはずだった三割の食糧の喪失は、不確実な「来春の収穫」よりも、はるかに深刻な「今現在の痛み」として認識されていた。

飢えへの恐怖に支配された彼らの脳には、カナリスの論理は「略奪の言葉」にしか聞こえなかった。

カナリス:(……投資対効果を考えれば、今耐えることが最大のリターンを生むのは明白なのに。。なぜ人は、自分たちの命を救うための数字すら、これほど激しく拒絶するのかしら)

カナリスの視界の端に、一人の男が不敵な笑みを浮かべているのが見えた。代官の残党と思われる、かつての利権に執着する古参の文官だ。彼は民衆に混じり、耳元で毒を吐くように噂を広めている。

文官:「……聞いたか? あの女、元はメルシエ家の会計士だ。離婚したのも、夫の家の金を横領したからだという噂だぞ。今度は、この地の麦を掠め取るつもりなんだ」

その「悪質なレピュテーション・リスク」は、閉鎖的な地域社会の情報ネットワークを通じ、瞬く間に「確定した事実」として領民たちの間に浸透していった。

市場ではカナリスの姿を見るなり商人たちが店を閉め、領主館へ向かう彼女の背中には、匿名の石が投げ込まれた。

怒号の中から、小さな石が飛んできた。避ける間もなく、カナリスの額をかすめて石畳に落ちる。じわりと熱が滲んだが、彼女は足を止めなかった。ただ真っ直ぐ前を見据えて歩き続けた。だが、かつての王都での披露宴の夜と同じ、底冷えするような孤独が、再び彼女を包み込もうとしていた。

領主館の廊下で、カナリスは一人、眼鏡を外して目元を指で押さえた。

カナリス:(……私は間違っていない。数字は嘘をつかないわ。……でも。……そうね。私はまた、同じ失敗を繰り返しているのかもしれない。数字さえ正しければ、人は動くと思い込んでいた。……前世でも、今世でも。私は『可愛げ』という資産を持たず、ただ『正しさ』という負債を積み上げ続けているだけなのかしら)

彼女の肩が、微かに震える。

グロック:「――おい。数字の魔術師。灯台の火が、風に揺れているぞ」

いつの間にか隣に立っていたグロックが、彼女の肩を無造作に、しかし力強く叩いた。

カナリス:「……閣下。領民たちのボイコットと不信感は、私の計算外の変数でした。このままでは、配給制限の『実行力』が損なわれます。それはこの地の破綻を早めるだけです。……私の論理は、彼らの『感情という障壁』に阻まれて、一歩も先に進めません」

グロックはサファイアブルーの瞳で、広場で投げられた石が掠めた、カナリスの額のわずかな傷を見つめた。

グロック:「ああ、そうだな。あいつらはバカだ。だがな、カナ。あいつらが恐れているのはお前の『数字』じゃない。その数字の裏に流れている、お前の『血』が見えないからだ」

グロックは、カナリスが握りしめていた、皺だらけの計算書を奪い取った。

グロック:「お前は、一粒の麦の行方すら逃さずに、一晩中計算していたな。あいつらの子供が冬を越せる『命の余白』を、自分の睡眠時間を削ってまで削り出していた。……だが、それをあの無機質な声で発表しちゃあ、慈悲も毒に聞こえる」

グロックはニヤリと笑い、腰の剣をガチャリと鳴らした。

グロック:「カナ。お前の冷たい数字、俺が預かる。それをあいつらの心に刺さる言葉に変えてやるよ」

カナリスは、眼鏡をかけ直し、自分よりもはるかに大きな男の背中を見上げた。

数字だけでは、世界を変えられない。 論理だけでは、命を救えない。

かつて信金で孤独に死んでいった「お局」が、初めて自分以外の「変数」……補完し合える「相棒」の存在を、心の帳簿に書き留めた瞬間であった。

(……次の一手は、彼に託すしかないようですね。……最高効率の翻訳家、というところでしょうか)

夜の嵐のような男の背中が、広場へと向かって歩み出す。 不毛の地に吹き荒れるのは、氷の風か、それとも変革の熱風か。

理ことわりを物語へと翻訳する、真の共同作業が始まろうとしていた。

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