第43話:聖域の隠された帳簿
王都の喧騒を離れた西の丘陵地。そこに鎮座するのは、王国最大にして最古の宗教施設「聖ミリア修道院」であった。白亜の石材で築かれたその巨大な建物は、天を衝く尖塔と重厚な回廊を備え、見る者に圧倒的な威圧感を与える。
しかし、その神聖なる静寂の奥底には、今、王国を破滅に導こうとした最大の「淀み」が隠れ潜んでいた。
市場の封鎖に失敗し、逃げ場を失った財務卿ジャック・ド・モルレは、全財産を「寄付金」という名目でこの修道院の金庫へ移し、自らも不逮捕特権を持つ地下聖域へと逃げ込んだのである。
カナリス・ヴァン・ベルクは、その巨大な鉄の門扉の前に立っていた。隣には不機嫌そうに腕組みをするグロック、そして背後には、場違いなほど華やかな香水を纏ったシルヴィアと、灰色の外套の襟を立てたクインが控えている。
門番の僧兵:「……立ち去ってください。ここは神の領域です。俗世の役人が踏み入る場所ではありません。いかに国王の許しがあろうとも、この聖域を侵すことは何人にも許されないのです」
門の隙間から現れたのは、修道院の財務を司る司祭、エウラリアであった。彼は冷徹な眼差しでカナリスを見据え、その手に握られた計算機を、まるで不浄な汚物であるかのように一瞥した。
エウラリア:「ベルク殿と言いましたか。そなたの数字がこの国を動かしているという噂は聞いています。だが、神の資産に俗世の計算機を持ち込むことは許されません。ここは祈りの場であり、利益を量る場所ではないのです」
グロック:「――おい。祈りの場だぁ? その祈りの場の中に、俺たちの麦を盗んだ泥棒が隠れてるんだよ。神様が泥棒の味方をするってんなら、俺の剣があんたらの神殿を物理的に片付けてやろうか?」
グロックが剣の柄を鳴らし、野性的な覇気を放つ。僧兵たちが一斉に槍を構えるが、グロックが放つ圧力に、彼らの足元は微かに震えていた。
カナリス:「閣下。……実力行使は最終手段です。外交的な損失を考えれば、まずは論理による城門突破を試みるべきです。……エウラリア殿。私は、神の理を否定しに来たのではありません。……むしろ、あなたがたが汚しているその聖域を、私の筆によって浄化しに来たのですよ」
カナリスは眼鏡を指で静かに直し、手元に広げた1通の巨大な羊皮紙を提示した。それは、彼女が王都の情報から編み上げた、王国全体の金の流れをまとめた帳簿であった。
カナリス:「……司祭。あなたがたは『神の資産』と仰いますが、帳簿の視点から見れば、この修道院は王国という組織の一部に過ぎません」
エウラリア:「な……!? 組織の一部、だと……? 貴様、神を侮辱するのも大概にせよ!」
カナリス:「……事実を整理しましょう。この修道院が立っている土地は、王家から無償で貸し出された公共の財産です。さらに、あなたがたが受けている税の免除。これは王国の税金を元手とした、実質的な国からの支援です。……王国から多大な援助を受け、国が整備した街道を利用して信者を集めながら、都合の良い時だけ中身の見えない暗がりに逃げ込むことは、組織の整合性を著しく壊す裏切り行為です。……経営権の一部が王国にある以上、私には、この聖域の帳簿を調査する正当な権利があります」
シルヴィア:「あらあら、お姉様。……そんな正論を並べても、この頑固な方々には響きませんわよ。……ねえ、司祭様。社交界では、この修道院が聖遺物の修復という名目で集めている金貨が、なぜかモルレ様の愛人が経営する宝石店へ流れているという……なんとも不敬な噂が流れておりますの。……その噂の淀み、お姉様に洗っていただいた方が、神様もお喜びになるのではありませんこと?」
シルヴィアは扇子で口元を隠し、試すような笑みを浮かべた。そこへ、クインが薄汚れた数枚の木札――寄付の受領証を指先で回しながら割り込んだ。
クイン:「……へっ、ドブネズミの仕事は終わってるぜ。……司祭様よ、この札に書かれた数字の癖……。……妙に斜めに跳ねた『7』の書き方。……これ、地下牢へぶち込んだ財務局の役人どもの筆跡と、一銭の狂いもなく一致してやがる。……聖域を通じた大規模な汚れた金の洗浄。……あいつが逃げ込んだのは神の懐じゃねぇ。……ただの汚ねぇゴミ箱の中だってことさ」
カナリスは、クインが示した札を受け取り、その数字の不自然さを冷徹に分析した。
カナリス:「……確定しましたね。……エウラリア殿。あなたがたが隠しているのは信仰ではなく、モルレ殿が過去30年にわたり王国から掠め取った不当な利益です。……不整合な帳簿は、悪魔が好む混沌そのもの。……私は会計士として、その混沌を理によって清算します。……門を開けてください。……これ以上拒絶を続けるなら、この修道院を利益を生まない負債と定義し、王命をもって法的に解体させていただきます」
エウラリアは、カナリスの眼鏡の奥に宿る、底冷えするような理の重圧に気圧された。目の前の会計士が語っているのは、もはや言葉ではなく、逃れようのない真実という名の鉄槌であった。
ギギギ、と重厚な鉄門が、敗北の音を立てて開かれた。
*
修道院の地下へ続く石畳の廊下。燃え残ったロウソクだけが揺れる薄暗い通路を、カナリスは迷いのない足取りで進んだ。
クイン:「……奥の小部屋だ。ドブの匂いがするぜ」
グロックは無言でカナリスの隣に並び、剣の柄に手を添えた。その先に、重い鉄扉がある。
カナリスは眼鏡を指で静かに直し、手元の帳簿を脇に抱えた。
カナリス:(これで最後。モルレ殿が隠し持っていた情報の淀みをすべて暴き、王国の負債を確定させる。この国の未来を一銭の狂いもなく正し、目に見えない脅威を可視化できる)
扉に手をかけた瞬間、グロックがぼそりと言った。
グロック:「……最強の盾どころか、お前、ついに神様の懐まで手を突っ込みやがったな、相棒」
カナリス:「……。……閣下。情報の清算に、聖域も俗世も関係ありません。……では、参りましょう。……不純物の清算を、始めます」
カナリスは眼鏡の奥の瞳に、底冷えするような理の光を宿したまま、静かにその最奥の扉を押し開いた。




