第44話:不純物の清算(決戦)とモルレの末路
聖ミリア修道院の地下深く。幾重にも重なる情報の防壁を、各地の帳簿を合流させるという名の槍で貫き、カナリス・ヴァン・ベルクはついに最奥の小部屋へと到達した。
そこは、王国の富を30年にわたって吸い上げ続けてきた「淀み」の終着点だった。財務卿ジャック・ド・モルレは、震える手で最後の一杯となるワインを煽り、冷笑を浮かべてカナリスを迎え入れた。
モルレ:「……フン、辺境の小娘が。ここまで来れば勝ちだと思っているのか? 勘違いするな。私は国の役人たちの集まりそのものだ。私一人を排除したところで、明日から王都の役人どもは路頭に迷い、納税の記録も、物流の許可証も、すべてが物理的に止まることになる。私という心臓を止めれば、この国という巨大な死体は、1秒で腐り始めるのだよ」
モルレは傲慢に胸を張り、傍らに置かれた巨大な金庫の鍵を叩いた。彼にとって、情報の不透明さこそが権力の源泉であり、自分がいなければ理が回らないという自負こそが、最後の生き残るための計算であった。
カナリスは眼鏡を指で静かに直すと、感情を排した声で応えた。
カナリス:「……モルレ殿。あなたは相変わらず、組織が長く続いていくという概念を理解していませんね。……あなたが誇るその情報の独占は、もはやこの国の詰まりでしかありません。そして……。心臓が止まっても、既に代わりの連絡網が構築されていることに、まだお気づきではないのですか?」
カナリスが背後の重厚な石の扉へ視線を送ると、そこから数人の男たちが姿を現した。
かつてモルレの足元に跪き、不当な横領に手を染めていた中堅官僚たちだった。しかし、今の彼らの瞳には、保身のための卑屈な色はなかった。代わりに宿っていたのは、一銭の狂いもない帳簿を完成させた者だけが持つ、奇妙な高揚感であった。
モルレ:「……貴様ら! 何の真似だ! 流行り病で寝ていろと言ったはずだぞ!」
官僚:「……申し訳ございません、財務卿。ですが、私たちはもう、中身の合わない気持ちの悪い帳簿は見たくないのです」
彼は震える手で、しかし誇らしげに1冊の書類をカナリスへと手渡した。
官僚:「……ベルク殿の指導の下、私たちは過去30年分の全取引を整理し直しました。……これが、あなたが隠蔽し続けてきた、一銭単位の不当な借金の明細です」
モルレの顔から、急速に血の気が引いていく。カナリスは受け取った書類をめくり、無機質な声で最後の一撃を放った。
カナリス:「……ジャック・ド・モルレ。あなたが『たかが端数だ』と笑って切り捨ててきた数字の羅列。……それらが積み重なり、この国の未来をどれだけ食い潰してきたか。……テオ君、知らせを」
部屋の隅から、ジュニア・監査官のリーダーであるテオが歩み出た。彼の隣には、文字は読めないが、カナリスから色や記号を使った計算方法を叩き込まれた子供たちが、色分けされた木札を手に並んでいた。
テオ:「はい、ベルク殿! ……モルレのおじさん。あなたが昨年度、軍用物資の運び賃からちょろまかした、わずか8リブラの端数。……この木札の理で計算すれば、それは北の村の農家3軒が、冬を越すための薪の代金とぴったり一致するんだ」
子供たちが、赤く塗られた木札をモルレの足元に次々と並べていく。
テオ:「この赤い札は、あなたが盗んだせいで、凍えて指を失った子供たちの数だ。……こっちの青い札は、道具の修理ができずに枯れ果てた畑の数。……おじさんが数字のゴミだと思って捨てた一行は、僕たちにとっては、誰かが死ぬ理由だったんだよ」
モルレ:「……な、何を……子供の戯言を……! 数字はただの記号だ! 人の生死などという計算できない邪魔なものを、私の計算式に持ち込むな!」
モルレは狂ったように叫び、金庫に縋り付いた。しかし、カナリスの冷徹な眼差しは、彼の魂の奥底にある淀みを逃さなかった。
カナリス:「……いいえ。統計的な殺人は、物理的な暴力よりもはるかに罪深いものです。……モルレ殿。あなたの管理ミスは、この国という組織に対する明白な裏切り行為です。……帳簿のズレ、情報の不透明、そして、人々が傷つくこと。……これらすべての項目に基づき、あなたの価値は本日をもって無価値……いえ、負債として確定しました」
グロックが重い足音を立ててモルレの前に立ちふさがった。彼は剣を抜くことはなかったが、その瞳が放つ圧力は、モルレの最後のプライドを粉々に砕いた。
グロック:「――おい。聞いたか、古狸。……お前が守りたかった威信だの理だのは、もうどこにも存在しねぇ。……お前が必死に隠したゴミを、このガキどもが全部洗い出しちまったからな」
グロックはモルレの襟元を掴むと、冷ややかに言い放った。
グロック:「……カナは整理と言ったが。俺はそうは思わねぇ。……お前はただの、古びた、使い物にならねぇ壊れた計算機だ。……さあ、地下牢という名の、薄暗い倉庫へ行ってもらおうか。そこなら、一晩中好きなだけ、自分の罪を数えていられるぜ」
モルレは悲鳴を上げながら、警備隊によって引き立てられていった。王国史上最悪の寄生虫は、自らが最も軽蔑していた文字の読めない子供たちと、冷徹な会計士の手によって、社会的な死を迎えた。
静まり返った地下書庫。カナリスは、モルレが飲み残したワインのグラスを端へ寄せ、手元の帳簿に最後の仕訳を記入した。
カナリス:「……情報の不純物の除去、完了しました。……王国中央財務府、第1期清算の終了を宣言します」
改心した官僚たちが、安堵と、そしてどこか晴れやかな表情でカナリスに深く一礼した。彼らは今、保身のために嘘をつく苦痛から解放され、数字が合うことの快感というプロの矜持に目覚めていた。
シルヴィア:「お見事でしたわ、お姉様。……これで王宮の中の淀みはすべて洗い流されましたわね。……さて、お姉様。このまま一気に、新政府を民に広めるための打ち合わせを始めませんこと?」
シルヴィアが華やかな香りを漂わせながら近づいてくる。その後ろには、クインが面倒くさそうに頭をかきながら立っていた。
クイン:「……へっ、お局様。ドブ川の掃除は終わったが、こいつからはまだ、死ぬほどめんどくせぇ仕事の匂いがプンプンするぜ。……ま、数字が合うってのは、寝覚めが良いもんだがな」
カナリスは眼鏡を直し、少しだけ顔を横に向けた。
カナリス:「……シルヴィア様。現在は体制を整えるための集計が最優先です。……打ち合わせは明日の定刻まで保留とさせていただきます」
グロック:「ははっ! 相変わらずだな。……おいカナ、大仕事が終わったんだ。今夜くらいは、俺と一緒に最高級の麦酒でも飲まねぇか?」
グロックが、いつの間にかカナリスの隣に立ち、彼女の肩を力強く叩いた。カナリスは一瞬だけ、その手の温もりに目を閉じたが、すぐに事務的な声を作った。
カナリス:(心臓の音がうるさい。現在、官僚たちが自分たちだけで動ける割合は目標の8割に留まっている。この状況で個人的な祝杯に時間を使うわけにはいかない。この人の隣にいたいという計算外の動悸を、冷徹な理で抑え込まなければ)
カナリス:「……。……閣下。現在、官僚たちの自律稼働率が目標値の8割に留まっており、社会情勢の変数を鑑みれば、個人的な祝杯にリソースを割く余裕はありません。……地盤が完全に安定し、私の不在が無駄な損失にならないと証明されるまで……その提案は、引き続き継続審議とさせていただきます」
グロック:「……ははっ! またそれかよ。……お前、その地盤が落ち着くのって、あと何年かかるんだ?」
カナリス:「予測値です。……進捗によっては、さらに延長の可能性があります」
カナリスは頬をわずかに朱に染めながら、手元の帳簿をパタンと閉じた。
理の盾を構えながら、しかし隣に立つ人の熱を、心の帳簿の最重要項目として書き留めた夜であった。
不毛の地に確立された、不純物の清算。それは、偽りの理を葬り去り、真実の実務家たちが新しい国を創り出すための、会計士カナリスの冷徹かつ情熱的な決着の記録だった。
彼女の心の帳簿には、モルレという名の返ってこない借金の処理完了と、そして共に未来を歩む家族という名の、換金不能な巨大資産が計上された。
日を置かず、王都の中央財務局では、かつてない活気の中で王国全体の最終的な決算作業が始まった。




