第38話:情報の淀み(インサイダー)と影の帳簿使い
王都の一画、ヴァイス府が管理運営する「穀物清算所」の分室。そこには、連日運び込まれる膨大な情報の断片を、複式簿記という名の濾過器で仕分けるカナリスの姿があった。
しかし、その日、カナリスの筆は不自然な位置で止まっていた。彼女は眼鏡を指で直し、目の前の「先物取引変動表」、すなわち将来の売買を予測する表を凝視する。
カナリス:「不可解ですね。王都における『穀物引換券』の流通量に対し、特定の商区での買い占め速度が、通常の需要予測を大幅に逸脱しています。……何らかの内部情報が、帳簿の外側で漏洩している疑いがあります」
隣で退屈そうに大きな椅子にふんぞり返り、リンゴを齧っていたグロックが、怪訝そうに眉を寄せた。
グロック:「買い占め? 誰かが俺たちの麦を欲しがってるなら、商売繁盛でいいんじゃねぇのか? 札を持ってくりゃ、ちゃんと麦は渡してやってるんだろ?」
カナリス:「閣下。市場とは、情報の正確さによって保たれる繊細な天秤です。もし、来週に麦の価格が上がると知っている者が事前に買い占めを行えば、それは真っ当な取引ではなく、他者の利益を掠め取る『情報の略奪』……内部情報の不正利用です。このままでは、一般の利用者が引換券を入手できなくなり、私たちが築き上げた信用の基盤が腐り始めます」
グロック:「あー、要するに、ずる賢い野郎がルールを無視して儲けてるってことか。だったら、そいつの首根っこを掴んで吐かせれば済む話だろ」
カナリス:「それができれば苦労はしません。相手は痕跡を巧妙に消しています。現在の私の『表の帳簿』だけでは、この淀みの正体が見えてこないのです」
その時、執務室の重厚な扉が、春の嵐のような華やかさとともに開け放たれた。
シルヴィア:「お困りのようですわね、お姉様! 数字に強いお姉様でも、ドブネズミの這いずる地下道の歩き方はご存じないのかしら?」
現れたのは、シルヴィア・ド・ヴァロワであった。彼女は今日も今日とて、グロックの隣に迷わず歩み寄り、その逞しい腕に自分の細い腕を絡ませる。
グロック:「げっ、また来たのか。おい、シルヴィア。今は仕事の話をしてるんだ。遊んでる暇はねぇぞ」
シルヴィア:「あら、心外ですわ閣下。私は、お姉様の帳簿を汚すドブネズミを捕まえるために、最高の『猟犬』を連れて参りましたのよ。さあ、入っていらっしゃいな」
シルヴィアが合図を送ると、部屋の入り口に、一人の男が姿を現した。くたびれた灰色の外套を纏い、無精髭を生やしたその男は、ひどく眠たげな目で部屋を見渡した。手には使い古された計算盤と、酒の染みがついた不格好な手帳を握っている。
シルヴィア:「ご紹介しますわ。元・フーガー商会の特別査定員、クインです。商会が不祥事のトカゲの尻尾切りとして、不当に解雇した『影の会計士』ですわ」
クイン:「へぇ。ここが噂の、ホワイトな職場ってやつか。空気が乾燥してて、計算機の音しか聞こえねぇな。熟練の女性実務家の、説教臭い匂いがするぜ」
クインは鼻を鳴らすと、カナリスの机の上に無作法に腰を下ろした。
カナリス:「シルヴィア様。私は外部への実務委託の予定を承認した覚えはありませんが。クイン殿。あなたの手元の手帳、項目の分類が極めて杜撰に見えますね。情報の整合性を保てない者と、実務を共有するつもりはありません」
クイン:「ハッ、整合性だぁ? おめでてぇな、ベルク家の出来損ない。お前の帳簿が綺麗なのはな、そこに『綺麗に洗われた数字』しか載せてねぇからだよ。欲望の淀みってやつはな、数字の合計を合わせることじゃなく、数字を合わせるために削り落とした『端数』の中に隠れてるんだよ」
クインは手帳のページを親指で弾き、カナリスの前に投げ出した。
クイン:「王都の第四商区で引換券を買い占めてるのは、王宮の軍需物資管理官の愛人たちだ。来月、帝国との国境警備のために大量の小麦が『特例買い上げ』される情報を、布団の中で聞き出したのさ。お前の綺麗な帳簿に、その寝物語の記録はあるか?」
カナリスは、クインが示した乱雑な記録を瞬時に精査した。愛人たちの個人名、彼女たちが利用している小規模な貸付業者の口座、そして資金の移動経路。それは、正規の監査ルートでは決して辿り着けない、ドブ川のような金の流れだった。
カナリス:(一銭の狂いもない誠実さを目指すには、時にこの男のような不純な視点も、逆説的な資産として活用すべきなのかもしれない)
カナリス:「認めましょう。あなたの持っている情報は、現在の私の計算の型において、極めて重要な足りない要素だ。」
クイン:「認めんのが早ぇな。ま、俺もフーガーの連中に一矢報いるためなら、この『綺麗すぎる職場』に少しは付き合ってやるよ」
*
議論は深夜まで及んだ。机の上には、カナリスが導き出した「契約不履行の理論的根拠」、シルヴィアが社交界で収集した「有力者たちの相関図」、そしてクインが暴き出した「裏金の流動データ」が並べられた。
カナリス:「状況を整理します。軍需管理官による情報の横流しは、情報を漏らさないという約束の破りに該当します。即刻、引換券の買い占め分を『不正な儲け』として没収する手続きに入ります」
シルヴィア:「あら、そんな正論、あの厚顔無恥な管理官たちが聞き入れるわけありませんわ。ここは、彼の愛人の一番のお気に入りが、実はフーガー商会のスパイと通じているという『噂』を流しましょう。そうすれば、彼は保身のために自分から買い占め分を差し出してきますわ」
クイン:「面倒くせぇな。その愛人の親父が作ってる、賭博の借用書。俺が昨夜、裏市場で安く買い叩いておいた。これを見せて『使いを出せ、サインしろ』って言えば、五分で片付くぜ」
グロックは、三人の実務家たちの会話を、口を半開きにして眺めていた。
グロック:「なぁ。お前ら、たまには俺に剣を抜く出番を残してくれねぇか? 話が不透明すぎて……いや、話がドロドロしすぎてて、俺、自分がここにいる意味がわからなくなってきたんだけどよ」
シルヴィア:「あら、閣下。閣下はそこに座って、最後に『決断』という名の判子を押してくださればいいのですわ。お姉様が理論を、私が根回しを、このドブネズミが裏工作を担当する。最高の陣形だと思いませんこと?」
クイン:「ドブネズミとは失礼な。俺は、この実務家様のガチガチの頭をほぐしてやってるだけだよ」
カナリスはグロックに向き直ると、告げた。
カナリス:「閣下。今はその無責任な直感ではなく、領主としての『威圧』を維持していてください。それがこの交渉を支える不確実な損失への備えになります」
*
翌朝、王都の軍需管理官のもとには、一通の書類が届けられた。そこには、彼が行った不正の「論理的証明」と、それを補完する「愛人の借用書」、そして「社交界での破滅の予告」が、一銭の狂いもなくパッケージングされていた。
数刻後、管理官は自らの罪を認め、買い占めていた全引換券を「王国再建基金」への寄付という形で返還した。
不毛の地に確立された、情報の防衛網。それは、感情なき論理、華やかな謀略、そして泥臭い真実という、異なる理を束ね始めたカナリスの、新たなる経営ステージの幕開けであった。
彼女の心の帳簿には、クインという名の「制御不能な不確実な損失の恐れ」が、しかし不可欠な協力者として、その異質な手触りとともに記された。
グロックは、去りゆく三人の背中を見ながら、不器用に笑った。
グロック:「最強の盾を持ってると思ってたが、いつの間にか、とんでもねぇ『毒』まで仲間にしちまったみたいだな、俺は」
シルヴィアはグロックを振り返り、意味深な笑みを浮かべた。
シルヴィア:「毒ではなく、これは『先行投資』ですわ、閣下。お姉様が理論の檻に閉じこもっている間に、私はこの協力体制を『共同事業』として正式に定義させていただきますわ」
カナリスの背中で、シルヴィアの不穏な宣言が響く。情報の淀みを清算したはずの帳簿に、今度は「人間関係」という名の、計算不能な巨大な利権争いが書き込まれようとしていた。




