第39話:共同事業(ジョイント・ベンチャー)と聖域の決算
王都の一画、ヴァイス府が管理する「王国再建委員会」の本部。そこは今、かつての静寂を忘れ、異なる背景を持つ実務家たちが火花を散らす、熱を帯びた作戦会議室と化していた。
カナリスは、執務机に広げられた巨大な王都の物流地図を指でなぞりながら、無機質な声で現状を整理した。
カナリス:「状況を整理します。王都の物流独占ギルド『黄金の車輪』が、我々の運河から届く物資の荷揚げを拒否し始めました。彼らは王都内の全倉庫の8割を借り占めることで、物理的な物の壁、すなわち在庫の壁を築いています。このままでは、ヴァイスの引換券を握った民衆が実際にパンを手に入れることができなくなり、再び信用の毀損を招きます」
グロック:「――だから言ったろ。あいつらの倉庫の鍵を、俺の剣でまとめてぶっ壊してくりゃあ済む話だってな」
グロックは、会議室の椅子に足を投げ出し、不機嫌そうにリンゴを齧った。彼の瞳は、退屈な話し合いよりも戦場を求めている。
そこへ、春の陽光をまとったような華やかな笑い声が割り込んだ。
シルヴィア:「あらあら、グロカール閣下。相変わらず野性的で素敵ですけれど、それではただの強盗ですわ。お姉様が築き上げたこの仕組みを、閣下の野蛮な剣で汚すわけにはまいりませんもの」
金髪の縦ロールを揺らし、完璧な愛想を振りまくシルヴィア・ド・ヴァロワが、小首を傾げながらグロックの肩にそっと手を置いた。彼女は若さと可愛らしさを隠すことなく武器にし、無遠慮にグロックのパーソナルスペースを侵食してくる。
シルヴィア:「お姉様。……お姉様は正論で相手を殴るのがお好きですけれど、男というのは『正しさ』よりも『自尊心』で動く生き物ですのよ? 今回の件、私に民の心に価値を植え付ける工作、すなわちマーケティングを任せてくださらないかしら?」
カナリスは、金縁の眼鏡を指で直しながら、シルヴィアの視線を受け止めた。
カナリス:「いいでしょう。シルヴィア様、あなたには王都の社交界……特に貴族夫人たちのサロンでの、物の価値を塗り替える工作、すなわちブランド操作を依頼します。……そしてクイン殿」
部屋の隅、影に潜むようにして座っていた無精髭の男――クインが、面倒くさそうに顔を上げた。
クイン:「……へっ、俺の出番か。お局様のホワイトな理屈じゃ、あいつらの『裏の帳簿』までは透かせねぇからな」
カナリスはクインに向き直ると、告げた。
カナリス:「ええ。あなたがかつてフーガー商会で培った、不透明な金の洗浄、すなわちマネーロンダリングの追跡スキルが必要です。ギルド『黄金の車輪』が強引に倉庫を借り占めている資金の出どころ……そこにある不純物を、徹底的に暴いてください」
*
作戦は、目に見えない速度で王都を侵食していった。
まず動いたのはシルヴィアだった。彼女は王都の有力貴族が通う高級サロンを連日訪れ、若く愛らしい笑顔を振りまきながら、あえてヴァイス領の製品を使わない生活を「時代遅れ」として嘲笑った。
シルヴィア:「あら、まだそんな安物の油を使っていらっしゃるの? ヴァイスの公認店で扱っている『黄金の雫』を知らないなんて。今の王都で最高級のステータスは、あの会計顧問様が保証した『整合性のある品質』ですのよ」
若く可愛らしい公爵令嬢が、徹底した愛想と毒舌を交えて語る物語。それは瞬く間に王都の流行を塗り替えた。貴族たちが一斉にヴァイスの製品を求め始めたことで、ギルドが隠し持っていた「在庫」の価値が暴騰し、同時に「なぜ市場に出回らないのか」という怒りの矛先がギルドへと向けられた。
その裏で、クインはギルドの役員たちがフーガー商会から帳簿に載らない融資、すなわち簿外融資を受け、無理な先物取引に手を出している証拠を掴んだ。
クイン:「……へっ、あいつら、自分たちの倉庫にある穀物を担保に、さらに別の借金をしてやがる。お局様、今この瞬間に、その借金の返済期限を『明日』に早める手続き、俺のツテで済ませておいたぜ」
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そして数日後。ギルド「黄金の車輪」の長老たちが、青い顔をして再建委員会に乗り込んできた。彼らを迎えたのは、整然と並んだ育成校の子供監査官たちの冷徹な目と、椅子に深く腰掛けたカナリスだった。
ギルド長:「べ、ベルク殿! 水門の荷揚げを再開する用意がある! だから、我がギルドの裏取引の記録を公開するのだけは待っていただきたい!」
カナリスは、一通の分厚い書類を彼らの前に提示した。
カナリス:「……ギルド長。私はあなたがたを破滅させに来たのではありません。あなたがたの持つ古い物流網を、私の新しい理に統合しに来たのです。これは複数の専門性を持ち寄る共同事業、すなわちジョイント・ベンチャーの契約書です。独占で小銭を稼ぐか、私のシステムの一部となって永続的な利益を得るか。期待される利益の差は、計算するまでもありませんね」
情報の壁を崩し、物資の流れを強制的に再開させる。それは、会計士カナリスが導き出した論理と、シルヴィアの謀略、そしてクインの裏工作が一つになった、共同事業の初陣であった。
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深夜。領主館のバルコニー。冷たい冬の夜風が吹き抜ける中、激務を終えたカナリスは眼鏡を外し、熱を持った目元を指で押さえた。
シルヴィア:「……あら、お姉様。お疲れのようですわね」
いつの間にか、シルヴィアがワイングラスを二つ手に持って現れた。彼女はカナリスの隣に並び、遠くで活気を取り戻した王都の灯火を見つめた。
シルヴィア:「今回の共同事業、見事でしたわ。でも、お姉様……。そんなに根を詰めてばかりいては、いつか倒れてしまいますわよ? そうなれば、閣下のお隣、私が空けさせてしまいますわ」
シルヴィアは、近くで馬の世話を終えて戻ってきたグロックへと視線を向けた。
シルヴィア:「ねぇ、グロカール閣下。私、今回の報酬として、閣下との『二人きりの夕食』をいただきたいの。お姉様には内緒の、もっと甘い物語を語り合いたいと思いませんこと?」
シルヴィアは、グロックの腕を抱きしめるようにして、上目遣いで彼を覗き込んだ。
グロック:「――あー、悪いがシルヴィア。お前の話はキラキラしすぎてて、どうにも耳が痛いんだ。飯ならあっちのテオたちと食ってこい」
グロックは困ったように笑いながら、シルヴィアの腕をさらりとかわした。彼はカナリスの方へ歩み寄ると、彼女の隣に立ち、夜の街を見下ろした。
グロック:「カナ、見てみろよ。……あいつら、今夜はみんな腹を空かせずに寝てる。お前が帳簿に線を引いたおかげで、この街の寝息が少しだけ深くなった気がするぜ」
カナリスは眼鏡を直し、少しだけ顔を横に向けた。
カナリス:「閣下。……寝息の深さを計測する手段はありませんが。ですが、物流の停滞という不純物が取り除かれたことだけは、事実ですね」
グロック:「……はは、相変わらずだな。俺はお前のそういうところが、一番信頼できるんだけどよ」
グロックは、カナリスの肩を軽く叩いた。その瞬間、カナリスは自分でも説明のつかない、指先の微かな震えを自覚した。
シルヴィア:「……あら。お姉様、そんな顔をなさるのね。……閣下、私はまだ諦めたわけではありませんのよ? お姉様が『お仕事』を盾に逃げ続けている間に、私がその隙間を埋めて差し上げますわ」
シルヴィアは意味深な笑みを残し、軽やかに去っていった。
*
静まり返ったバルコニー。カナリスは、隣に立つ男が発する熱を、厚い上着越しに感じていた。
グロック:「……なぁ、カナ。シルヴィアの言う通り、お前、たまには『仕事』以外の話も聞いてくれていいんだぞ」
カナリスはゆっくりと眼鏡をかけ直し、事務的な声を作った。
カナリス:(一銭の狂いもない誠実さこそが、最強の防壁になる。目に見えない脅威を可視化できる。だが、この人が隣にいて初めて、私の数字は命を持つのだ。これは私の帳簿に計上されるべき、唯一の正の遺産だ)
カナリス:「閣下。……現在のヴァイス領は、王国再編のモデルケースとして、国内外から注視されています。この地盤が完全に安定し、誰の手を借りずとも理が回るようになるまで……。私の生涯契約に関する回答は、すべて保留とさせていただきます」
グロック:「保留……。ははっ、またそれかよ。お前、その地盤が落ち着くのって、あと何年かかるんだ?」
カナリス:「予測値です。……進捗によっては、さらに延長の可能性があります」
カナリスは顔を伏せ、手元の帳簿をパタンと閉じた。彼女の心の帳簿の余白には、いつまでも消えない不快ではない動悸の記録が、具体的な名前を与えられないまま、ただ静かに積み重なっていた。
しかし、その安らぎを切り裂くように、部屋の扉が勢いよく開かれた。
テオ:「ベルク殿! 緊急事態です! 中央財務局が、実務の完全停止を宣言しました!」
カナリスは目を見開いた。
テオ:「職員たちが一斉に流行り病で休むと言い出し、地下書庫の扉に鍵がかけられました! このままでは、来月の国家予算の策定……国の財布の中身を調べる監査が、物理的に不可能になります!」
王都の奥底に横たわる、巨大な利権の墓場。財務卿モルレによる、情報の氷河期が始まろうとしていた。




