第37話:未招待の配当(公爵令嬢)と家計の共同監査
ヴァイス領の冬は、もはや死を待つ静寂の季節ではなかった。王国の実質的な経営権を掌握して以来、この最果ての地は国家再編の心臓部として拍動し続けている。連日、王都や周辺領地から届く膨大な報告書。カナリス・ヴァン・ベルクは、その一つひとつを複式簿記の「理」によって仕分け、澱みのない金の流れへと組み替えていた。
だが、その規則正しい実務の音を、あまりにも不作法で華やかな喧騒が切り裂いた。
シルヴィア:「ごきげんよう、皆様! そして初めまして、私の未来の旦那様!」
領主府の執務室。重厚な扉が跳ねるように開くと、冬の北国には場違いな、春の陽光をそのまま形にしたような金髪の少女が飛び込んできた。贅沢なレースを幾重にも重ねたドレス。その少女――シルヴィア・ド・ヴァロワは、花が咲くような愛らしい笑顔を浮かべ、戸惑うグロックへと一直線に歩み寄った。
彼女は、王国でも五指に入る名門、ヴァロワ公爵家の令嬢である。そして、大陸最大の資本であるフーガー商会が、王国の負債整理の交換条件としてグロックに提示していた「縁談の相手」その人であった。
グロック:「――うわっ、なんだ!? おい、そのキラキラしたのとヒラヒラしたの、近寄るな!」
グロックは椅子を倒さんばかりの勢いで身をのけぞらせ、執務机の端へと逃れた。野生動物が未知の極彩色に警戒を強めるような、剥き出しの嫌悪感である。
シルヴィア:「あら、そんなに照れなくてもよろしいのに。……あなたがベルク家の、氷の会計士様ですわね? お姉様とお呼びしてもよろしいかしら?」
シルヴィアは、計算機のように無機質に立ち尽くすカナリスに、無邪気な、しかし計算し尽くされた完璧な愛想を振りまいた。
カナリス:「シルヴィア様。私はあなたのような妹を持った記憶はございませんし、現在のヴァイス領の運営計画に、公爵家からの婚儀という名の事案を計上する予定はありません。……お引き取りを」
カナリスは眼鏡を指で直し、冷淡に告げた。だが、シルヴィアはその拒絶を心地よい風のように受け流し、小脇に抱えていた小さな木箱を机に置いた。
シルヴィア:「あら、そう仰らずに。お姉様、私は何も、閣下の顔を見に来ただけではありませんのよ。……私の実家、ヴァロワ公爵家は、すでに完成し、安定しきった退屈な場所。父も兄も、古臭い伝統を守ることだけに汲々としていて、ちっとも面白くありませんの」
シルヴィアは木箱を開け、中から磨き上げられた一冊の資産目録を取り出した。
シルヴィア:「でも、このヴァイス領は違いますわ。お姉様が作り上げたこの新しい仕組み……。泥の中から黄金を汲み上げるようなこの圧倒的な成長の見込み(ポテンシャル)! 私は、完成された実家の看板よりも、ここにある未来に私の全財産と、そして私自身を預けに来たのですわ。……どう、最高の共同事業だと思いませんこと?」
カナリスは、シルヴィアの差し出した目録を一瞥した。そこには、王都の有力貴族たちとの強力な繋がり、そして何より巨大資本であるフーガー商会との不戦の誓約とも言える膨大な出資の約束が記されていた。
カナリス:(事実を整理すれば、彼女を迎え入れれば、フーガー商会からの経済的圧力を完全に無力化できる。王都の門閥貴族たちをヴァイス経済圏へ従属させる政治的な盾が完成するのだ。この領地の将来的な収益と安定を考えれば、シルヴィア様を受け入れるのが、最も理に適った答え(最適解)……)
論理的な結論は、すでに出ている。だが、カナリスの胸の奥で、帳簿には絶対に書けない重い塊が、不快な鈍痛となって居座っていた。
カナリス:「グロカール閣下。検討の余地はありません。領地の将来と、巨大資本との無益な争いを避けるため、シルヴィア様を受け入れるのが最も理に適った答え(最適解)です。どうぞ、彼女を執務室の隣の客間に案内して差し上げてください」
カナリスの声は、どこまでも平坦だった。だが、その視線は机の上の計算盤の端に固定されたまま、動かない。彼女は自分でも気づかないほど強く、羽ペンを握りしめていた。一度結婚を経験し、人生のすべてを失った。もう、自分の中に揺れるような感情など残っていないはずなのに。
グロック:「――おい、カナ! 本気で言ってんのか!?」
グロックの声が、執務室の空気を震わせた。彼は机を叩き、カナリスの顔を覗き込もうとした。
グロック:「お前、俺が他の女と何しようが、数字が合えばそれでいいのかよ! 俺は、あんたたちの守りたい威信だの盾だの、そんなもんになるためにここに立ってるんじゃねぇぞ!」
カナリス:「……。……そうですね。閣下のお気持ちは理解しますが、これは私情を挟むべき場面ではありません。……私の……私の計算によれば、これが、この領地にとって最も……」
カナリスは言葉を詰まらせた。眼鏡の奥の瞳が、わずかに潤んだのを彼女は必死に隠そうとした。辛い。嫌だ。そう叫びたい自分を、必死に会計士という名の檻に閉じ込めている。
シルヴィア:「あらあら、閣下。お姉様はあまりにも賢すぎて、自分の本当の気持ちが見えていらっしゃらないようですわね」
シルヴィアは、二人の間に流れる張り詰めた空気を、愉悦に満ちた表情で見つめていた。彼女は、カナリスの横に回り込み、その耳元で甘く、残酷に囁いた。
シルヴィア:「お姉様。私、お二人が幸せになってくれないと、私の番が回ってこないんですの。だから、私が閣下を奪い取る前に、お姉様が自分の本当の答えを見つけてくださらないかしら?」
シルヴィアはそう言うと、グロックに向かって軽やかにウィンクをし、付き人を連れて部屋を出て行った。嵐が去ったような静寂。
*
夕暮れ時。執務室には、沈みゆく太陽が長い影を落としていた。グロックは不機嫌そうに窓辺に立ち、カナリスは再び帳簿に向き合っていた。だが、ペンの先にはインクさえ付いていない。
グロック:「……カナ。俺はバカだから、お前の言う難しい話はわからねぇ。だがな、俺を交換条件みたいに扱うのだけはやめてくれ」
グロックは、カナリスの机の前まで歩み寄ると、彼女が握りしめていたペンを、そっと、しかし強引に奪い取った。
グロック:「俺が欲しいのは、愛想のいい公爵令嬢じゃねぇ。不機嫌な顔して、一銭の狂いもなく俺の隣で帳簿をつけてる、お前だけなんだよ。お前がいない場所なんて、俺には一文の価値もねぇんだ。わかったか、相棒」
グロックの不器用で、熱を帯びた言葉。それは、カナリスがどんなに理屈で固めた防壁も、いとも容易く溶かしてしまった。
カナリス:「……閣下。その発言を裏付ける、客観的な証拠は?」
カナリスが、顔を伏せたまま震える声で問う。
グロック:「ああ、ねぇよ。だが、俺のこの剣と、お前が信じてるその数字が、嘘じゃねぇってことを生涯かけて証明し続けてやる。それで十分だろ?」
グロックの瞳が、真剣な光を宿してカナリスを見つめる。
カナリス:(一銭の狂いもない誠実さこそが、最強の防壁になる。目に見えない脅威を可視化できる。だが、この男が隣にいて初めて、私の数字は命を持つ。これは私の帳簿に計上されるべき、唯一の正の遺産だ)
二人の間に結ばれた絆が、もはや他者には介入不可能な魂の専売特許であることを、静かに、しかし鮮やかに証明した夕暮れであった。
しかし、新しく確立された平穏の裏側で、淀んだ欲望は再び蠢き始めていた。カナリスはふと、手元の広域流通データに目を落とした。王都周辺で発行されている穀物引換券の流通量に対し、特定の商区での買い占め速度が、通常の需要予測を大幅に逸脱している。
カナリス:(不可解な情報の淀み(インサイダー)だ。王都での信用の根幹が、何者かによって意図的に汚されようとしている。……閣下、次は王都に設置した我々の拠点を固める必要がありそうです)
管理権を確立したはずの王都で、再び目に見えない略奪が始まろうとしていた。




