第27話:敵対的買収(テイクオーバー)と民衆の株主総会
領民:「なんだよ、これは! 俺たちの工房に、なんで勝手に変な紙を貼るんだ!」
領民の怒鳴り声が、冬の冷たい空気を震わせた。 領主館の物見櫓から見下ろせば、中央広場の「白き工房」の門前に、王都の紋章を胸に刻んだ執行官たちが立ち塞がっていた。
テオ:「やめてください! ここはベルク殿が、僕たちのために整えてくれた場所だ!」
見習い文官のテオが必死に抗議するが、執行官は冷酷に鼻で笑った。
執行官:「黙れ、小僧。この土地の主が借金を返せなくなった以上、これらの資産はすべて差し押さえの対象だ。お前たちの居場所なんてものは、帳簿の上では1銭の価値もない不純物でしかないんだよ」
領民たちの間に、急速に絶望と怒りが広がった。
カナリス:(人は得る喜びより、失う恐怖を強く感じる性質がある。これは感情が理を追い越した、危険な予兆だ。不当な略奪を目前にした、生存本能による混乱が始まろうとしている)
そこへ、重厚な足音を響かせ、グロックが姿を現した。
グロック:「――おい。俺の家で、勝手に模様替えを始めるのは誰の許可だ?」
グロックは、差し出された証書を忌々しそうに一瞥した。
執行官:「ヴァイス伯! 暴力を振るえば、それこそ王都の法に背くことになりますぞ。この債権証書に並んだ数字が、あんたの負けを証明しているのだ!」
グロック:「……チッ。数字の話はわからんが、俺の民の腹が減るような理屈は、俺の剣が認めねぇと言っている」
グロックが剣の柄に手をかけたその時、背後の領主館から、静かだが凛とした声が響いた。
カナリス:「――閣下、そのままで。暴力による解決は、当組織の社会的信用を暴落させる、最も高い代償となります」
現れたのは、カナリス・ヴァン・ベルクだった。まだ顔色は白く、眼鏡の奥の瞳には隠しきれない疲労が滲んでいる。だが、彼女が抱えた1冊の新しい帳簿には、確かな勝利の理が宿っていた。
ハンス:「おや、お局会計士殿。病床から這い出してきたか。だが無駄だ。我々フーガー商会が買い取った債権は法的に完璧だ。ヴァイス伯個人に、これを即時返済するキャッシュ……手元の現金はない」
カナリス:「ええ、その通りです。閣下個人には、その負の遺産を今すぐ清算する現金はありません。……ですが、ハンス殿。あなたは致命的な読み落としをしています」
カナリスは、領民たちにも見えるように1通の法人化証書を高く掲げた。
カナリス:「私が休息に入る直前、この地のすべての主要資産――運河、工房、および備蓄米は、領主個人の所有物から切り離されました。これらは現在、領地の全住民を出資者とした**『地域協同組合』**、つまり全員が持ち主となる組織の所有に移行しています」
ハンス:「……な、何だと!? 切り離しただと!?」
カナリス:「契約書を精査してください。あなたが買い取ったのは、あくまで領主グロカールの個人的な債務に過ぎません。しかし、この地の資産はすでに領民1人ひとりが、自らの労働と少額の出資を担保に共有している財産です。資本の論理に従えば、あなたは1人の男の借金を追いかけることはできても、数千人の領民たちが法的に共有する財産に指1本触れることは不可能なのですよ」
カナリスの放つ論理の刃は、フーガー商会が用意していた買収の数式を根底から解体した。
カナリス:「……それと、もう一つ。せっかくですから、あなたの組織の棚卸しもさせていただきましたよ」
カナリスは鞄から、以前構築した送金ネットワークの集計表を取り出した。
カナリス:「我が領の送金網は、今や王国全土の水の流れを把握しています。そこから見えてきた不自然な水の淀み。……フーガー商会、あなた方は他国の戦争資金として、王府に無届けの巨額の隠し借金を抱えていますね?」
ハンスの顔から、一気に血の気が引いた。
カナリス:「この情報の整合性を王宮財務府に突きつければ、明日にはフーガー商会そのものが国家の不良資産として凍結されるでしょう。さて、和解の条件を提示しましょうか? 今すぐその古い債権を我が領に1リブラで譲渡し、経済封鎖を解くのです。さもなければ、あなたの商会の信用を、この場で灰にして差し上げます」
執行官たちが逃げるように去っていった後、広場には静寂と、それから爆発的な歓喜が訪れた。 だが、領民たちはまだ、カナリスが言った共同組合や隠し借金という言葉の意味を理解しきれず、不安そうに顔を見合わせていた。
グロックは、1歩前に踏み出すと、カナリスの肩に手を置き、民衆に向かって叫んだ。
グロック:「聞け、野郎ども! 今の話は難しくて俺もよくわからん! だが、カナが言いたいのはたった一つだ!」
グロックの声は、理屈を超えて民の心に直接響いた。
グロック:「あいつら商人は、俺たちが作ったこの運河や工房を、ただの金儲けの道具だと思って奪いに来やがった。だがな、カナが作ったこの新しい仕組みの中には、お前ら全員の居場所が、1人の漏れもなく書き込まれてるんだよ! この土地は俺のもんじゃない、お前ら全員で守る、お前ら全員の資産なんだ! 誰にも……1銭たりとも奪わせるんじゃねぇぞ!」
「おおおおおっ!!」
地鳴りのような咆哮。領民たちは、自分たちが単なる使われる側ではなく、この地の持ち主になったことを、グロックの熱い言葉によって、魂で理解した。
*
夕暮れ時。領主館のテラスで、カナリスは再び椅子に座り込み、深く溜息をついた。
カナリス:「……。閣下、3歩……いえ、今は1歩までなら許可します。疲れました」
グロック:「ははっ! お前、あんなに格好よく啖呵を切っておきながら、やっぱりまだフラフラじゃねぇか」
グロックはカナリスの隣に座り、彼女の細い肩をそっと支えた。
カナリス:(非合理的だ。買収を防ぐための手段として組織の組み替えを急いだ結果、私の身体という資源が限界値を超えてしまった。……だが、これでようやく、誰の庇護にも依存しない聖域は、領民全員の盾として完成した。私の前の人生から求めていた自己資本比率100%の人生は、この子たちの未来とも繋がっているのだ)
グロック:「……おい、カナ。お前のペンが止まらねぇのは知ってるが、今夜はここまでだ。ほら、広場を見てみろよ。あいつら、自分たちが持ち主になったお祝いだって言って、特大のスープを作り始めてやがるぞ」
広場からは、かつての不毛の地では想像もできなかった、賑やかな笑い声と温かいスープの匂いが漂ってきた。
しかし、その賑わいの中に、1人の見慣れぬ身なりのいい商人が紛れ込んでいた。彼はスープを受け取ったテオに近づき、懐から1枚の紙片――カナリスが発行したばかりの「運河通行権証書」を取り出して囁いた。
商人:「お若いの。その証書……もし今すぐ譲ってくれるなら、金貨5枚で買い取ろう。どうだ、悪い話じゃないだろう?」
テオ:「えっ……? 金貨、5枚……?」
お祝いの熱狂の裏側で、数字の裏付けのない新たな欲望が、静かにヴァイス領の理を侵食し始めようとしていた。




