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愛想がないと結婚0日目に離縁されたアラサー会計士 ~複式簿記で辺境領地を再建します~  作者: かな


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第26話:停止する計算機(オーバーワーク)と相棒の休息

ヴァイス領主館の最奥、財務顧問室。そこには、王都の最高評議府から送られてくる国家財政の膨大な監査資料、急拡大する送金ネットワークの決済記録、そして巨大資本フーガー商会から連日のように叩きつけられる不当な訴状の山が築かれていた。

カナリス・ヴァン・ベルクは、暗がりの中で一本の羽ペンを走らせ続けていた。

彼女は育成校でジュニア・監査官たちを育て、業務の標準化、つまり誰でも同じ成果が出せる手順の策定とマニュアル化を徹底してきた。現場の数字は、彼女が直接手を下さずとも自律的に整理される仕組みが構築されている。しかし、最終的な承認チェックだけは自分がやらなければならないという責任感が、彼女を追い詰めていた。

フーガー商会という強大で狡猾な敵を相手にする以上、わずかな情報の淀みも許されない。一銭の狂いが、この地に築き上げた「信用」という名の最強の盾を粉々に砕いてしまう可能性があることを、彼女は誰よりも理解していた。

深夜2時。ロウソクの炎が激しく爆ぜ、室内の影を揺らした。

カナリス:「……次は、南方の宿場における、ネッティング残高、つまり互いの貸し借りを差し引いた残りの……突き合わせを……」

呟いた声が、自分でも驚くほど掠れていた。帳簿の白紙を見つめる眼鏡の奥の瞳が、不意に泳ぐ。羊皮紙に記された黒い数字の列が、まるで蠢く虫のように歪み始め、視界が急速に白濁していく。

カナリス:(……おかしい。計算が、合わない。……いや、焦点が合わないのだ……?)

不意に、指先から感覚が消えた。羽ペンが乾いた音を立てて床に転がる。心拍数が異常に跳ね上がり、呼吸が浅くなる。喉の奥に、鉄の味がせり上がってきた。その瞬間、彼女の意識は現在の記録庫を切り離され、遥か遠い前の人生の記憶――あの「最後の夜」へと引き摺り込まれた。

窓のない信用金庫の事務所。虚しく鳴り続ける電話の着信音と、上司の冷たい罵倒。自分が組織の一部品として削り取られ、消耗品のように使い捨てられていく、あの底なしの無力感。薄暗いデスクに突っ伏した自分の横で、計算機と筆が手から滑り落ちた、あの冷たい床の感触。

カナリス:(……ああ、まただ。私はまた、自分の人生のバランスシートを見誤ったのか。自分という財産を使い潰して、何を得ようとしていたのだろう)

身体が椅子から崩れ落ち、暗闇へと傾いていく。今度こそ、二度と醒めることのない永遠の清算が自分を連れ去るのだと、彼女は朦濁する意識の中で確信した。

グロック:「――おい! カナ!」

身体が床に叩きつけられる寸前、熱を帯びた強烈な力が彼女を支えた。

カナリス:「……が、閣……下……?」

視界の端に、グロックの姿が映る。グロックは、崩れ落ちたカナリスを抱き上げると、その身体のあまりの軽さと、氷のように冷え切った指先に顔を歪めた。

カナリス:「……離して……ください。……まだ、フーガーの訴状への……法的対抗要件、つまり言い返すための法的な根拠を……。私がやらなければ、この地の理が……」

朦朧としながらも、彼女は自分をシステムの中心であると信じて疑わず、主人の手を押し返そうとする。だが、グロックは彼女を離すどころか、さらに力を込めてその細い肩を抱きしめた。

グロック:「うるせぇ! 理屈なんて後だ! お前は以前、職人たちに『命を守るのが最高の投資だ』なんて抜かしてただろ! なら、お前自身が真っ先にそのルールを破ってどうするんだ!」

グロックは、カナリスが命よりも愛おしそうに握りしめていた帳簿を奪い取り、乱暴に閉じた。

グロック:「いいか。これは俺の命令……いや、契約だ。今すぐ、寝ろ」

カナリスはそれ以上抗う力もなく、グロックの腕の熱に包まれたまま、穏やかな闇へと落ちていった。

翌朝。カナリスが目を覚ましたのは、執務室の硬い椅子の上ではなく、領主館の客室にある柔らかなベッドの上だった。窓から差し込む冬の陽光が、眼鏡のないぼやけた視界を白く染めている。

「……やっと起きたか。お前、死んだかと思ったぜ」

枕元には、不釣り合いに大きな椅子に座り、腕組みをしたまま彼女を凝視するグロックの姿があった。その手には、湯気を立てる素朴な木椀が握られている。

グロック:「ほら、食え。計算はできねぇが、これくらいなら俺でも用意できる」

差し出されたのは、かつてカナリスが「白き工房」の職人たちに義務付けた、栄養管理メニューに基づく「豚肉と大麦の塩スープ」だった。過酷な労働によるビタミン不足と脱水症状を防ぐため、彼女自身が設計した働き手の修繕用の食事である。

カナリス:「……非合理的です。私が寝込んでいる間に、王都への知らせが滞り、不必要な機会損失、つまり利益を得る機会を逃してしまいます……」

彼女は起き上がろうとしたが、全身が重い鉛のように感じられ、再び枕に沈んだ。

グロック:「コストだぁ? そんなもん、テオたちが泣きながら終わらせたよ。お前が育てたあのガキども、お前の真似して『貸借が合いません!』なんて言いながら、一晩中机にかじりついてやがった」

カナリスは驚き、目を見開いた。彼女がいなくても、彼女が築き上げた教育という名のシステムは、自律的に動いていたのだ。

グロック:「いいか、カナ。俺は難しいことはわからん。だがな、今の俺にとって、一番維持費をかけるべき最重要資産は、金貨でも麦でもねぇ。お前の命なんだよ。……お前が死んだら、この領地がどれだけ金持ちになったって、俺にとってはただのゴミの山なんだ」

グロックは不器用な手つきで、スープをカナリスの口元に運んだ。その眼差しは、領主としての命令でも、パートナーとしての信頼でもない。ただ一人の男としての、剥き出しの執着と慈しみが宿っていた。

カナリス:「……高くつくメンテナンス、つまり修繕ですね……」

彼女は小さく呟き、静かにスープを口にした。温かい栄養が、冷え切っていた身体の芯をゆっくりと解きほぐしていく。

カナリス:(……そうか。私はもう、一人で戦わなくてもいい。私が止まっても、理は止まらない。それは、前の人生の私が一度も手に入れることができなかった、本当の意味での自立なのかもしれない)

カナリスは眼鏡を直し、隣で少しだけ安心したように笑うグロックの顔を見た。

カナリス:「閣下。……明日、私が復帰した際には、今回の看護に費やした人的な余力の代償として、より精緻な健康管理の規程を領内全域に展開させていただきます。……不純物としての病は、私の帳簿には計上したくありませんから」

グロック:「ははっ、相変わらず可愛げのねぇ理屈だ。……だが、それでこそ俺の相棒だぜ」

二人が静かな休息の時間を共有していた、その時。 領主館の廊下を、血相を変えたテオが駆け抜けてきた。

テオ:「ベルク殿! 閣下! 大変です! 工房の門前に、王都の執行官を名乗る連中が現れました! 債務不履行による資産の差し押さえだと言って、工房に封印の紙を貼り付けています!」

カナリスの手が、ピクリと止まった。 彼女の休息を狙い澄ましたかのように、フーガー商会による物理的な買収、つまり組織の乗っ取りという名の最後の一撃が、今まさに放たれようとしていた。

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