第25話:送金網(レミッタンス)と情報の支店網
ヴァイス領の街道は、かつてないほど「重い」空気に包まれていた。
それは物流が停滞しているからではない。むしろ逆だ。先日開通した「血脈の運河」と、整備された「血脈の街道」を通じ、南方の自由都市連合や王都から、かつてない規模の商団がこの地を目指していたからである。だが、商使たちの顔には、一獲千金を狙う者の野心よりも、背後を伺うような、張り詰めた焦燥が色濃く滲んでいた。
彼らの馬車の荷台には、重い金銀貨が詰まった袋が、いくつもの厳重な鍵をかけられた革袋の中に押し込められていた。
カナリスは、領主館の物見櫓からその様子を静かに見下ろしていた。
カナリス:「……非効率ですね。あれだけの量の現金を物理的に運ぶのは、単なる『移動』ではなく、常に襲撃のリスクを抱えた『物理的なお荷物』を抱えて歩くのと同じです。今の街道には、情報の淀みと同じくらい、解決すべき『重みの淀み』が存在しています」
隣で退屈そうに空を眺めていたグロックが、重厚な甲冑の音を立てて身を乗り出した。
グロック:「重みの淀みだぁ? カナ、俺にはあいつらの馬車が重ければ重いほど、俺たちの領地に金が落ちるようにしか見えねぇがな。商売ってのは、金を持ってきてなんぼだろ?」
カナリス:「閣下、三歩下がってください。……現金を運ぶこと自体が、無駄な損失なのです。商人は、その重い袋を守るために傭兵を雇い、盗賊に怯え、さらにはフーガー商会が運営する関所や両替所で、法外な『金を送るための手数料』という名の略奪を受けています。……情報の偏りを利用して、フーガーはただ金を動かすだけで、汗を流す商人たちの利益の数割を掠め取っているのですよ」
グロック:「……略奪? ただ金を替えるだけでか?」
カナリス:「ええ。フーガー商会のサロンに集まる大商人はいいでしょう。ですが、小規模な行商人や、我が領の工房と直接取引をしたい職人たちは、その手数料のために、本来得られるはずだった利益を削られている。……この不透明な暴利を、私の手で『整理』させていただきます」
カナリス:(双方が同じ情報を持てば、不当な略奪は防げる。情報の偏りを突いて利益を得る者たちから、情報の主導権を奪い返す。前の人生の信用金庫時代に培った支店網の概念、この世界でも理として機能するはずだ)
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数日後、カナリスはヴァイス領と提携している隣領の宿場町や、南方の拠点となる商館に対し、一通の「事業提携書」を送付した。
彼女が着手したのは、前世の職場時代に培った概念を応用した、「小口送金ネットワーク」の構築であった。
カナリスが設計した仕組みは、至ってシンプルかつ合理的だった。
まず、ヴァイス領へ向かう商人は、わざわざ重い金貨を持って旅をする必要はない。提携先である南方の宿場、つまり支店に現金を預け、代わりにヴァイス領主の刻印が入った「預かり証(為替手形)」を受け取る。
商人はその紙切れ一枚を持って、身軽に街道を移動する。そしてヴァイス領に到着した際、その手形を領主館の窓口へ提示すれば、あらかじめ預けていた額に相当する穀物引換券や、現地の通貨を受け取ることができる。
宿場側は預かった現金を一時的な運用資金として活用でき、ヴァイス領側は商人の流入を加速させることができる。そして何より、フーガー商会の中抜きを排除することで、送金にかかる費用を従来の5分の1以下に圧縮したのである。
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この「送金の理」が市場に浸透するのに、一ヶ月もかからなかった。
中央広場の両替所。一人の老商人が、震える手でヴァイスの「預かり証」を差し出していた。
商人:「……本当に、これだけでいいのか? いつもなら、王都の両替商に銀貨10枚も取られるところなんだが……」
計量官:「ええ、手形の照合は完了しました。不備はありません。こちらが、あなたが預けた額から事務手数料を差し引いた分の、穀物引換券です」
商人は、受け取った引換券の束を抱きしめ、何度も頭を下げた。
商人:「ありがたい……。これでようやく、故郷の家族にまともな土産を買って帰れる。……ヴァイスの会計顧問殿は、本当に神の使いのようなお方だ」
物陰でその様子を見ていたカナリスに、商人が駆け寄り、震える声で感謝を述べた。
カナリス:「……当然の権利です。情報の偏りによる略奪は、経済の不純物でしかありません。……今後も、あなたの誠実な取引記録を評価し、利用料のさらなる優遇を検討しましょう」
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夕暮れ時。領主館のテラスで、グロックは沈みゆく夕日を背に、カナリスの机の上に積まれた大量の「使用済み手形」を手に取った。
グロック:「……なあ、カナ。さっきの爺さんの顔を見て、俺も少し分かった気がするぜ」
カナリス:「何を、でしょうか」
グロック:「俺は数字はわからん。だがな、お前の作ったこの『紙切れ』……。……物理的な金塊よりも、よっぽど『重い』んだな」
グロックは、瞳を細め、手の中の紙を感慨深そうに見つめた。
グロック:「金塊は奪われたらおしまいだが、この紙の裏には、お前の引いた定規の線と、この領地の理が詰まってる。……カナ。お前はついに、この不毛な地に、剣でも城壁でも守れねぇ最強の『盾』を作っちまったんだな。……金よりも重い、信用っていう名の盾をよ」
カナリスは眼鏡を直し、視線を帳簿に戻した。
カナリス:「……。……盾、ですか。……管理の観点から言えば、信用ほど維持が困難な資産はありませんが。……そうですね、閣下。……あなたがその盾を物理的に守り抜いてくれるというのなら、私の計算式は、さらに広大なネットワークを構築できるでしょう」
カナリス:(一銭の狂いもない誠実さこそが、最強の防壁になる。私がこの地に築いた理は、もはや私一人のものではない)
送金ネットワークの拡大は、ヴァイス領に莫大な富と情報をもたらした。しかし、それは同時に、情報の淀みを一切許さない、膨大な「確認作業」という名の代償を、カナリスの机に積み上げていた。
深夜二時。ロウソクの炎が激しく爆ぜ、室内の影を揺らす。机の上に築かれた監査資料と決済記録の山を前に、カナリスの指先から、わずかに感覚が消えようとしていた。自己資本比率100%の人生の完成を急ぐ彼女の精神が、今、肉体の限界という名の「不測の負債」に直面しようとしていた。




