第28話:偽りの繁栄(バブル)と欲望の損益計算
ヴァイス領の空気は、数日前から異質な熱を帯びていた。それは運河が開通した時の高揚とも、住民たちが組織を作り成功を収めた時の安堵とも違う、どこか足元が浮き立つような、刺々しい熱狂だった。
領主館の執務室。カナリスは、眼鏡を指で直し、窓の外を見下ろしていた。広場には、見たこともない身なりのいい商使たちが溢れ、彼らは荷馬車を引くわけでもなく、ただ一枚の紙片を奪い合うようにして叫んでいる。
カナリス:「……情報の淀みが、ついに『毒』に変わりましたね」
彼女が手にしているのは、ヴァイス領が発行した「運河通行権証書」の写しだ。本来、これは運河を利用する船主たちが、将来の通行料を前払いすることで優先枠を確保するための、実際の需要に基づいた証書だった。
しかし今、市場で起きているのは利用のための売買ではない。
グロック:「――おい、カナ。広場がとんでもねぇことになってるぞ」
扉を勢いよく開けて入ってきたグロックは、苛立ちを隠さずに革の椅子へ身を投げ出した。
グロック:「あいつら、俺たちの運河の紙切れ一枚に、家が建つほどの金貨を積んでやがる。それだけじゃねぇ。村の連中までが『クワを振るうより、あの紙を転がした方が儲かる』なんて言い出して、工房や畑に空きが出始めてる。……カナ、これはお前の言ってた『豊かさ』ってやつなのか?」
カナリス:「いいえ。これは豊かさではなく、人々の期待が膨らみすぎた結果、実体、つまり中身を伴わないまま数字だけが一人歩きしている状態です。双方が同じ情報を持たなければ、不当な略奪は防げませんが……。今、情報の偏りを突いて、フーガー商会が裏で価格を釣り上げ、住民から汗を流して働く意欲を奪っています」
グロック:「フーガーの仕業か。あいつら、俺たちの道を汚しやがって」
*
その日の午後。「白き工房」の親方が、青ざめた顔で領主館へ駆け込んできた。
親方:「ベルク殿、助けてくれ! 熟練の機織り職人たちが、3人まとめて辞めると言い出したんだ! 『この1ヶ月で証書の転売で稼いだ金が、10年の給金を超えた。もう糸を紡ぐ必要なんてない』って……!」
カナリスは、親方の報告を淡々と、しかし羽ペンを握る指に力を込めて聞いていた。
カナリス:(働き手という財産の流出。フーガーの狙い通りだ。数字の裏付けのない熱狂は、最も効率的に組織を腐敗させる。目に見えない脅威を可視化できる。……手術を始めましょう。この腫瘍を、私の筆で強制的に破裂させるのだ)
カナリス:「……閣下、手術を始めましょう。……この腫瘍を、私の筆で強制的に破裂させます」
グロック:「破裂だぁ? どうやってそんなことをするんだ?」
カナリス:「……バブル、つまり膨らみすぎた期待を止める唯一の方法は、人々の期待を物理的な現実で上書きすることです。……テオ君。地域協同組合の全組合員へ緊急招集を。……そして、王都の広報官へこの公式文書を届けてください」
*
翌朝。ヴァイス領の中央広場には、さらなる証書の高騰を期待する投機家たちが詰めかけていた。
そこへ、領主館のバルコニーにカナリスとグロックが姿を現した。カナリスは一通の布告書を高く掲げ、その無機質な声を広場に響かせた。
カナリス:「……本日、領主館の決定を告げます。現在の運河通行権証書の流通価格は、適正な価値を大幅に逸脱していると判断します。よって、利用者の利便性を確保するため、本日より証書の『無制限の追加発行』を開始します」
広場が静まり返った。それは、希少価値によって跳ね上がっていた紙切れの価値を、領主館自らが暴落させるという宣言だった。
カナリス:「併せて、追加発行によって得られた全資金を、運河のさらなる拡張と、宿場インフラの強化に全額投入します。……紙を転がして利益を得たい方は、どうぞご自由に。ですが、我々が守るのは『紙』の値段ではなく、この地を流れる『富』の通り道だけです」
どよめきが、一瞬で悲鳴に変わった。 「嘘だろ!? 紙の価値がなくなるぞ!」 「逃げろ! 今すぐ売るんだ!」
情報の淀みが、カナリスの放った「供給」という名の現実によって押し流された。フーガー商会の差し金で集まっていた投機資金は、一晩で領外へと逃げ出していった。
*
深夜。静まり返った執務室で、カナリスは今回のバブル処理に伴う最終的な損益計算書をまとめていた。
カナリス:「……証書の追加発行による直接的な収益は、全額を運河の拡張費用へ充当。……投機資金の流出による市場の引き締め効果は、推定15パーセント。……働き手の帰還率は、現時点で9割を超えました」
グロック:「……カナ。お前、本当に容赦ねぇよな。あんなに騒いでた連中を、たった1日の告知で黙らせちまうんだからよ。……お前のペンは、やっぱり俺の剣よりよっぽどえげつねぇな」
グロックはカナリスの机の端に腰掛け、彼女を見つめた。
カナリス:「……えげつないのは、人間の欲望の方ですよ、閣下。……私はただ、数字のバランスをあるべき場所へ戻しただけです」
カナリスは眼鏡を外し、熱を持った目を閉じた。
カナリス:「ですが、これで決着です。……フーガー商会は今回の暴落で、王都での社会的信用と、莫大な資金を失いました。……実体経済、つまり汗を流して物を生み出す理が伴わない虚業が、この地の理を飲み込むことはできません」
心の帳簿に刻まれた、欲望の損益計算。 それは、偽りの繁栄を切り捨て、真実の実りだけを資産として計上した、会計士カナリスの冷徹なる勝利の記録であった。
しかし、勝利の余韻に浸る間もなく、執務室の扉を叩く激しい音が響いた。
テオ:「ベルク殿! 閣下! 大変です! 『白き工房』の職人たちが、次々と倒れています! 昨夜から発熱を訴える者が急増し、今朝は第2班の半分以上が出勤できていません!」
情報の毒を排した矢先に訪れた、物理的な「環境の淀み」。不毛の地を、見えない病魔が蝕み始めようとしていた。




