第23話:白き工房と熟練工の亡命
ヴァイス領の湿地帯を貫く運河の建設が進む傍ら、領主館の北側に巨大な石造りの建物が完成した。
「白き工房」。
そう名付けられたそこは、ヴァイス領の新たな主要産業としてカナリスが設計した毛織物工場だ。かつては農家の軒先で女性たちが細々と行っていた紡績や機織りを一箇所に集約し、組織化した生産拠点である。
工房の中に入れば、規則正しく並んだ最新式の水平式踏木織機の音が小気味よいリズムを刻んでいる。だが、その光景以上に異質なのは、そこで働く職人たちの「環境」だった。
カナリスは執務机に広げた分厚い労務管理台帳に筆を走らせながら、横に立つテオに指示を出した。
カナリス:「テオ君、第2シフトの交代時間は厳守させてください。……あと、地下の貯蔵庫から出させた野菜のスープ、塩分濃度を2段階上げました。職人たちの発汗量に対するミネラル補給、すなわち体内の塩分調整が、現在の計算では不足しています」
テオ:「はい、ベルク殿! でも、職人さんたちは『こんなに休んで、しかも温かいスープまでもらっていいのか』って、逆に不安がってますよ」
カナリスは眼鏡を指で直し、冷淡に答えた。
カナリス:「……不安を感じる必要はありません。私は慈善事業をしているのではないのです。……これは働き手という財産の価値が失われるのを防ぐための、最も合理的な投資です。職人が過労で倒れれば、彼らが持つ熟練の技という、目に見えない財産が消失します。その損失を考えれば、3交代制を導入して労働時間を8時間に制限し、福利厚生、つまり生活の保証を充実させる方が、長期的には高い収益を生みます。それだけのことです」
カナリス:(前の人生の職場では、多くの無理な経営をする会社が倒産していく様を見てきた。私自身もまた、その過酷な労働の果てに命を散らしたのだ。この世界における、職人を使い捨てにする慣習は、致命的な経営ミスにしか見えない)
手洗いの義務化、定期的な換気、そして栄養バランスの取れた食事の提供。それら現代の労働基準をマニュアル化した彼女の改革は、職人たちの間に、かつてないほどの生産性と、そして領主への異様なまでの忠誠心を生み出していた。
*
そんな「白き工房」に、最初の波乱が訪れたのは、冬の風が運河を冷やし始めた昼下がりのことだった。
工房の門前に、10数人の薄汚れた男たちが立ち尽くしていた。彼らは隣接するカステル領――フーガー商会が強力な利権を持つ織物ギルドの拠点から逃れてきた、熟練の職人たちだった。
「……お願いだ。ここで働かせてくれ。あっちのギルドじゃ、給金は3ヶ月も滞納され、病気になればゴミのように捨てられる。……ヴァイス領には、職人を人間として扱う『白い城』があるって聞いたんだ」
彼らの指は、長年の過酷な労働で節くれ立ち、ひび割れている。カナリスは彼らの様子を冷徹な目で見分し、即座に「採用」の判を帳簿に押した。
カナリス:「プロの技能を持つ方の亡命は歓迎します。直ちに検疫を受け、温かいスープを摂取してください。3日間の休養後、研修プログラムへ移行します」
だが、この熟練工の亡命を、フーガー商会が黙って見過ごすはずもなかった。
*
翌日。カステル領の織物ギルドから、フーガー商会の代理人を伴った使節団が、領主館に乗り込んできた。
ギルド長:「ヴァイス伯爵! おたくの顧問が、我がギルドの誇る職人たちを不当に引き抜いたと聞いた。これは明白な職人泥棒であり、古くからのギルドの法に対する重大な挑戦だ。今すぐ彼らを突き返してもらおう!」
隣で不機嫌そうに椅子に座っていたグロックが、使節団を睨みつけた。
グロック:「……職人泥棒だぁ? 随分と人聞きの悪いことを言うじゃねぇか。あいつらは自分の足で、ここへ助けてくれって泣きついてきたんだ。……お前らがメシも食わせず、金も払わねぇから、あいつらはこの地を『選んだ』。……それだけのことだろ?」
ギルド長:「黙れ! 職人はギルドの所有物だ! 徒弟契約に基づき、彼らには働く義務がある!」
カナリスが静かに一歩前に出た。彼女の手には、職人たちが持っていた契約書類の写しがあった。
カナリス:「……ギルド長殿。感情で声を荒らげるのは、交渉の席では不適切な費用の浪費です。……あなたの仰る契約、拝見しました。……ですが、この契約は、法的にすでに『失効』しています。効力を失っているということです」
カナリス:「契約書第17条。『親方は職人に対し、毎月定められた対価を支払う。不履行が3ヶ月を超えた場合、職人はその役務から解放される』。……さらに、王令に定められた『自由民の居住移転の権利』に照らせば、給与未払いという重大な違反を犯しているのは貴殿らの方です。彼らは解放された自由民であり、自発的に新たな雇用主と契約を結んだに過ぎません」
フーガー商会の代理人が、冷たい汗を拭いながらカナリスを凝視した。
代理人:「……しかし、ベルク殿。あのような高待遇で職人を雇えば、貴領の収支は破綻するはずだ。……これは市場の価格秩序を乱す不当な競争ではないか?」
カナリス:「……破綻? むしろ逆ですよ。……あなた方が『コスト』だと思っているものは、私にとっては『投資』です。体調の万全な職人が、3交代制で常に高い集中力を維持して織り上げる布。……それは、あなた方が過労で震える手で織らせた粗悪品よりも、2割以上も良質な製品ができる割合が高く、品質も均一です。……市場はどちらを適正と判断するか、計算するまでもありませんね」
カナリスの放つ論理の刃は、ギルドの古い権威を完膚なきまでに切り刻んだ。使節団は、逃げるようにヴァイス領を後にした。
*
夕暮れ時。カナリスは、新しく加わった職人たちの体調チェックリストを確認するため、再び工房を訪れていた。
あまりの多忙に、彼女の眼鏡の奥の瞳には、微かに前の人生のあの時と同じような、昏い疲労の影が差していた。
「……カナ。お前、また一人で全部背負い込んでるな」
不意に背後から声をかけられ、カナリスは肩を跳ねさせた。振り返ると、グロックが呆れたような表情で立っていた。
カナリス:「……閣下。驚かせないでください。……私はただ、新しい働き手の適応状況を可視化しているだけで……」
グロックは答えず、カナリスの手から羽ペンをひったくるように取り上げた。
グロック:「お前、さっきから職人のスープの塩加減だの、寝床の風通しだのばっかり書き込んでるが。……自分の腹の中に、何を入れたか覚えてるか?」
カナリス:「……。……いえ、昼食は事務作業の合間に軽く摂取した記憶が……」
グロック:「嘘をつけ。お前の胃袋の帳簿は、とっくに『真っ赤』じゃねぇか。職人たちの体調を一人ひとり帳簿で守って……。お前、本当にすげぇ奴だよ。……俺たちが剣を振るって敵を追い払うのと同じように、お前はペン一本で、この地の連中の命を守ってるんだな。……お前は俺たちの、本当の『命の番人』だぜ」
カナリスは、その直球すぎる言葉に、一瞬だけ呼吸を忘れた。
カナリス:(番人。私が、誰かの命を……。……そんな感情的な評価、私の帳簿には必要ないはずなのに。でも、彼の大きな手が肩を叩いた瞬間、その熱が、頑なな心を解きほぐしていくのを感じる。……人的資産の維持が私の責務であることは認めよう。今夜だけは、少しだけ休養を計上することにする)
カナリスは眼鏡を外し、小さく微笑んだ。不毛の地に築かれた、白き工房。それは、ブラックな時代を生き抜いた会計士が、理と情を掛け合わせて生み出した、何者にも奪われない最強の城であった。
*
翌朝。ヴァイス領の中央広場。 活気づく市場を視察に訪れたカナリスは、一人の商人が広げている「ヴァイスの白」と呼ばれる高品質な毛織物を手に取った。しかし、その手触りを感じた瞬間、彼女の眼鏡の奥の瞳が鋭く細められた。
カナリス:「……。……閣下、三歩下がってください。……情報の淀みが、想定よりも早く『不純物』として市場に混入し始めたようです」
カナリスが指差した布には、ヴァイス領主家の紋章である「立ち上がる獅子」が誇らしげに刻まれていた。だがその織り目は、工房の基準値を3割も下回る、粗悪な「模倣品」であった。




