第22話:血脈の運河と水利権の罠
ヴァイス領の執務室に、不穏な沈黙が流れていた。カナリスは、手元の計算板を叩く手を止め、窓の外を睨んだ。そこには、以前よりも格段に交通量の増えた街道が見える。しかし、その「量」とは裏腹に、領地の利益率は不自然な下降曲線を描き始めていた。
カナリス:「……露骨ですね。大陸全土の貸付市場を握るフーガー商会。彼らが傘下の関所や中継港に対し、我が領に関わる商人にだけ『信用リスク手数料』という名の中抜きを強要しています。陸路の運送の費用が、この1ヶ月で4割も跳ね上がりました」
隣で退屈そうに地図を眺めていたグロックが、低く唸った。
グロック:「4割だぁ? あいつら、俺たちの道を歩く奴から勝手に金を毟り取ってるってのか。カナ、そんなの、俺がそいつらの関所をぶっ壊しに行けば済む話じゃねぇか」
カナリス:「閣下、三歩下がってください。……暴力で関所を壊せば、それは公的な宣戦布告と見なされます。フーガーの狙いは、我々を『無法者』の枠に閉じ込め、王国全土から経済的に孤立させること。……敵は物理的な壁を築いているのではありません。情報の淀みと、金銭の障壁を築いているのです。双方が同じ情報を持たなければ、不当な略奪は防げません。彼らは情報の不透明さを武器に、我々の利益を吸い取っています」
カナリスは大きな羊皮紙の白紙を机に広げ、定規を当てて1本の線を引いた。それは、ヴァイス領の湿地帯を横断し、隣領の河川へと繋がる新しい「血脈」の設計図だった。
カナリス:「陸路が塞がれたのなら、水路を通します。……『血脈の運河』計画を始動させましょう。船による大量輸送が実現すれば、フーガーの支配下にある街道を一切通らずに、南方の自由都市連合へ直接荷を届けられます。運送の費用は、現在の3分の1まで圧縮できる計算です」
グロック:「……水の上を走る道か。面白そうじゃねぇか。よし、俺がスコップを持って先陣を切ってやるよ!」
カナリスは、グロックの直感的な賛同に小さく頷いた。
カナリス:(インフラによる物理的な迂回戦略。それは、巨大資本という網を食い破るための、最も合理的で、最も巨大な投資になる。前の人生の職場で培った地域開発融資の知恵が、ここで活きるのだ)
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しかし、改革の鍬が入った直後、予想通りの、しかし最悪の「障壁」が立ち塞がった。
運河の接続先となる河川の下流――隣接するボドアン子爵領が、突如として水門を閉鎖したのだ。ボドアン子爵はフーガー商会から多額の献金を受けていることで知られる、古い価値観に縛られた領主だった。彼は水利権の侵害を盾に、ヴァイス領の運河建設を「我が領の水を盗む暴挙」と断罪したのである。
運河予定地は泥沼と化し、作業員たちは途方に暮れていた。
グロック:「……あの野郎。水門を閉めやがった。このままじゃ運河はただの長いドブ池だ。カナ、今度こそ剣の出番じゃねぇのか? 水門の番人を追い払って、俺たちが開けちまえばいいんだろ」
カナリス:「閣下、お待ちください。……相手が法と伝統を盾にしている以上、こちらも別の『理』で返さねばなりません。……私は少し、あの方の領地を『棚卸し』して参ります」
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カナリスは、数名の監査官候補の子供たちを連れ、境界付近の地質調査に向かった。彼女が教えた測量術と記録の標準化により、子供たちは無言で土壌のサンプルを採取し、色分けした木札を立てていく。カナリスは自らも泥に膝をつき、土の匂いを嗅ぎ、手触りを確認した。
カナリス:(……やはり。情報の淀みがここにも現れている。相手が気づいていない『目に見えない脅威』を可視化できる。不当な略奪を防ぐには、相手に逃げ場のない現実を突きつけるしかない)
数日後、カナリスはボドアン子爵に対し、正式な「事業提携の会談」を申し入れた。
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ボドアン領の古びた会談の間。子爵は傲慢な笑みを浮かべ、カナリスを見下ろした。
ボドアン:「……ヴァイスの会計顧問殿。水が欲しくて泣きついてきたか? 無駄だ。我が領の川は、我が家系が300年守ってきた聖域。フーガー殿も、お前たちの汚れた運河に水を与える必要はないと仰っている」
カナリス:「……聖域、ですか。では、その聖域がもたらしている結果についてお話ししましょう」
カナリスは詳細な色分けがなされた地図を広げた。
カナリス:「子爵閣下。過去3年のあなたの領地の収穫高を逆算しました。……ひどいものですね。上流で水を独占しているにもかかわらず、あなたの領地の麦は、年々一粒あたりの重量が2割も減っている。……理由は明白です。この地域の土壌は、長年の不適切な灌漑により『強酸性』に傾いています。大地が水を毒に変えているのです」
ボドアン:「……な、何をデタラメを!」
カナリス:「デタラメではありません。これは木札に記録された、あなたの領民たちの沈黙の悲鳴です。……フーガー商会はあなたに金を貸してくれるでしょうが、その金で麦は育ちません。……そこで、私から妥協案を提示します」
カナリスの筆が、運河の排水路の設計図をなぞった。
カナリス:「我が領の運河の排水路を、あなたの領地の灌漑網に繋げます。その際、運河の底に敷き詰める『消石灰』を用いた土壌改良技術を無償で提供しましょう。運河を通る水は、我が領の石灰石鉱山から出る中和剤によって、あなたの領地を蘇らせる恵みの水へと変わります」
ボドアン:「……技術を、教えると言うのか?」
カナリス:「ええ。その代わり、運河の通過権を永続的に保障し、通行税の一部をあなたの領地の維持管理費として分配する契約を結びましょう。……敵対してフーガーの負債を増やすか、共犯者となって大地の富を2倍にするか。……損益分岐点は、あなたの目の前にあるこの数字が示しています」
ボドアン子爵は、震える手で地図を凝視した。彼にとって、カナリスの提示した数字は、魔法よりも恐ろしく、そして抗い難い救済に見えた。
*
1週間後。ヴァイス領の湿地帯に、再び活気が戻った。水門は開かれ、透き通った水が新しい運河へと流れ込み始めた。
堤防の上で、グロックは泥まみれになりながら、作業員たちと一緒になって杭を打ち込んでいた。グロックは、遠くで測量図を広げているカナリスに、大きく手を振った。
カナリスは眼鏡を直し、少しだけ困ったような、しかし確かな信頼を込めた視線をグロックに返した。
カナリス:(……閣下、少しは仕事を選んでください。……ですが、あなたのその非論理的な強情さが、今は私の計算の最大の防壁になっています。前の人生では出会えなかった、最高効率のパートナーなのだ)
カナリスは再び、自身の帳簿に筆を走らせた。運河が繋がれば、次は流れてくる富を「製品」に変える場所が必要だ。カナリスは運河のほとりに広がる空き地を見つめ、次なる一手――領地の新たな主要産業となる毛織物工場の建設計画を帳簿に書き加えた。
不毛の地に開かれた、血脈の運河。それは、巨大資本の包囲網を、論理と利益の連帯で食い破った、会計士カナリスの次なる勝利の轍であった。
だが、この巨大なインフラの完成は、さらなる「人的資源」の不足という、新たな経営課題を彼女に突きつけようとしていた。




