第17話:泥の法廷と隠された二重帳簿
王都の中心に鎮座する「中央評議会」の大公堂。天井から吊るされた巨大な蜜蝋の灯火が黄金色の光を放ち、広大な広間を照らし出していた。かつてカナリスが、人生のすべてが崩れ落ちるような感覚を味わったあの披露宴の夜と同じような輝き。だが、今の彼女を包むのは、虚飾の温もりではなく、鋭利に研ぎ澄まされた沈黙だった。
雛壇の上には、王国の重鎮である高位貴族たちが居並び、一人の女性実務家を、まるで深海の底に沈んだ異物を検分するような目で見下ろしている。
「――異議を申し立てる! ヴァイス伯爵顧問、カナリス・ヴァン・ベルクは、卑劣な手段を用いて我がメルシエ侯爵家の正当な財産を強奪し、家門の運営を麻痺させた! これは明白な簒奪であり、王国の法が保障する貴族の権利に対する重大な冒涜である!」
公堂の中央で、ロラン・ド・メルシエは悲痛な声を張り上げていた。かつてカナリスを否定し、結婚初日に放り出した男は、今や身なりの整わぬ焦燥を隠しきれず、額に脂汗を浮かべている。先日、ヴァランソール中継港において行われた権利の強制的な移転、つまり法的な手続きによる資産の差し押さえにより、メルシエ家の資金繰りは完全に麻痺していた。
議長役の老侯爵が、重々しく口を開いた。
議長:「……被告、カナリス・ヴァン・ベルク。原告の主張によれば、貴殿は法証人の権威を悪用し、メルシエ家の港の権利を不当に奪ったとのことだが。……この公の場において、釈明の機会を与える」
カナリスは、静かに歩み出た。その隣には、野性味溢れる装いのグロックが、盾のように立っている。グロックは公堂の仰々しい雰囲気にいかにも退屈そうな様子を見せていたが、その鋭い瞳だけは、獲物を狙う獣のように周囲を威圧し続けていた。
カナリス:「釈明の必要はありません。……すべては、確定した権利に基づく正当な回収に過ぎませんから」
公衆の面前、カナリスの声は驚くほど平坦で、しかし公堂の隅々まで響き渡った。彼女は手にした分厚い羊皮紙の束を広げ、ロランを真っ直ぐに見据えた。
カナリス:「ロラン様。……あなたは私があなたの財産を奪ったと仰いましたが。……そもそも、あなたの言うその『財産』は、本当にあなたの帳簿に存在するべきものだったのでしょうか?」
ロラン:「……何だと? 貴様、負け惜しみも大概にしろ! メルシエ家の富は、先代からの輝かしい功績によって積み上げられたものだ!」
カナリス:「……そうでしょうか。ロラン様。……思い返してください。あの披露宴の夜、私が指摘したことを」
カナリスの脳裏に、あの一夜の光景が蘇った。豪奢な大広間。膝の上に広げた財産台帳。そして、その中に感じた「気持ちの悪い違和感」。
カナリス:「あの夜、私は申し上げましたね。『領地からの収穫報告と、この財務の仕組みが全く理に合っておりません。この淀みを正さねば、家門の信義を損なうことになりましょう』と」
ロランが、目に見えて動揺し、後退りした。
カナリス:「あの時は、単なる管理の不備による誤差だと思っていました。あるいは、家長としてのあなたの怠慢だと。ですが、ヴァイス領で適正な財務運用を重ね、王国の全流通過程を精査した今、その『淀み』が何を意味していたのか、はっきりと理解できました」
カナリスは、議長の許可を得て、公堂の壁面に大きな図解を掲げさせた。それは数字の読めない者にも、金貨の流れが視覚的に理解できるよう整理されたものだった。
カナリス:「メルシエ侯爵家は長年、教会の聖遺物取引を独占的に仲介してきました。……しかし、帳簿上の『財産の記録』として計上されている聖遺物の評価額と、実際に受領された際の記録。……これらを左右に並べて突き合わせた時、逃れようのない空白が浮かび上がります」
ロラン:「そ、それは……! 聖遺物の価値など、時の情勢によって変わるものだ!」
カナリス:「いいえ。価値が変わったのではありません。存在しない価値を捏造し、本来支払うべき『国への義務』を消し去っていたのです。……あなたがたは、王室へ納めるべき多額の聖域通行税を免れるため、架空の聖遺物を財産として計上し、実体のない取引を繰り返すことで、公的な借金を隠蔽し続けてきた」
カナリスの筆が、壁面の図の「空白」を鋭く指し示した。
カナリス:「貸借の一致により、数字の辻褄が合う、という理に照らせば、この右側の数字が消えている場所には、本来『脱税』という名の巨大な負債が座っているはずです。……計算しました。メルシエ家が過去30年にわたり、財務府に対して隠し続けてきた未払いの税、および虚偽報告による罰金。……その総額は、ロラン様が今お持ちの全財産を、3回買い取っても足りないほどの金額になります」
公堂が、騒然とした。高位貴族たちの間から、驚愕と、そしてメルシエ家を軽蔑するような囁きが漏れる。
カナリス:「……ここに、その全容を複式簿記の論理、つまり左右を対照させて逆算する算術によって証明した精査報告書があります。議長。……メルシエ家が主張する『奪われた財産』とは、そもそも王国の金庫から掠め取られた『横領金』であり、差し押さえの対象となるべき正しくない蓄えです」
カナリスは報告書を議長へと手渡した。それは、地味な会計士が、自らの筆一本で名門侯爵家を解体するための「死刑宣告書」であった。
ロラン:「嘘だ……! そんな出鱈目、誰が信じる! この女は、数字という名の呪文で私を陥れようとしているんだ! 王都の法は、女の妄言など聞き入れぬはずだ!」
ロランが叫ぶ。だが、議長の手元にある報告書には、誰の目にも明らかな「数字の矛盾」が、言い逃れのできない証拠として刻まれていた。
グロック:「――おい。あいつ、さっきから『呪文』だのなんだの騒いでるが」
グロックが、腕組みをしたままロランを鼻で笑った。
グロック:「俺は数字はわからん。だがな、あの王宮の役人たちの顔を見てみろ。……あいつらは、お前の『名誉』なんて見てねぇ。……お前が王様の財布からいくら盗んだのか、その『答え』をあの紙から見つけちまったらしいぜ。……いい面構えだ、まるで身ぐるみを剥がされた賊そのものじゃねぇか」
グロックの不敵な物言いに、ロランはガタガタと震え出し、その場に膝を突いた。
議長が、重い槌を叩いた。
議長:「……提出された精査報告書を精査した。……メルシエ侯爵家には、国家に対する重大な過失、および公金横領の事実が認められる。……ロラン・ド・メルシエを即座に拘束し、家門の全資産を、未払い税金の還付として王室が暫定的に差し押さえることを決定する」
公堂を支配したのは、理の執行に伴う冷徹な沈黙だった。ロランは衛兵によって引き立てられながら、カナリスに向かって何かを叫ぼうとしたが、彼女の眼鏡に映る自分自身の無様な姿に、最期まで言葉を紡ぐことはできなかった。
カナリスは、空席となった原告席を一度だけ一瞥し、静かに帳簿を閉じた。
カナリス:(……メルシエ家、清算完了。……これで、私の人生を汚していた『不良債権』、すなわち回収不能な負債は、すべて処理されました。双方が同じ情報を持たなければ、不当な略奪は防げない。前の職場で学んだ鉄則は、この世界でも有効だった)
公衆の面前で、地味な会計士が王都の権威を、数字という名の「真実」で粉砕した瞬間であった。
*
夕暮れ、公堂の外。冷たい風が、王都の街道を吹き抜けていく。
グロック:「カナ、お疲れさん。……お前のあの『紙の槍』、やっぱり俺が振り回す剣よりよっぽど怖いな。……あの侯爵様、自分がなんで破滅したのか、死ぬまで理解できねぇだろうぜ」
カナリス:「……私はただ、合っていない数字を、あるべき場所へ戻しただけです。……それ以上のことも、以下のこともしていません」
カナリスは眼鏡を直し、西の空を見上げた。
カナリス:「ですが、これで決着です。……私はもう、誰の所有物でも、誰の道具でもありません。……ようやく、自己資本比率100%の人生、つまり誰の力にも頼らず自分だけの蓄えで生きる人生の、本当の土台が完成しました」
彼女の言葉には、かつて王都を追放された時の絶望も、冷たさもなかった。そこにあるのは、自らの手で理を勝ち取った者だけが持つ、静かな自負であった。
しかし、二人が大公堂を去ろうとしたその時、背後から鋭い靴音が近づいた。
「ベルク殿。少々お待ちを」
呼び止めたのは、国王の筆頭法務官、ヴォークリューズであった。その手に握られた数枚の羊皮紙が、夕闇の中で不気味に白く光った。
ヴォークリューズ:「公の審問は終わりましたが、事務的な手続きとして、もう一つ清算すべき『大きな案件』が残っております。……あなたの実家、ベルク男爵家の負債についてです。数日後、没収したメルシエ邸の検分を行います。そこでお会いしましょう」
カナリスの手が、わずかに止まった。ロランという不利益な関係を切り捨てた直後、彼女の自立を阻む最後の鎖が、今まさに、天秤の上に乗せられようとしていた。




