第16話:債権回収の行進(侯爵家への強制執行)
ヴァイス領の執務室。窓の外には冬の気配が迫る北の空が広がっていた。カナリスは金縁の眼鏡を指で静かに直し、一通の封書を屑籠へと放り捨てた。
それは王都のメルシエ侯爵家――元夫ロランからの返答だった。不当な信用毀損および損害賠償請求に対し、不誠実極まる「ゼロ回答」である。
カナリス:「……『支払い能力がないため、本件の請求は無効である』、ですか。ロラン様らしい、あまりに短絡的な不渡り宣言ですね」
グロック:「あ? 無効だと? あいつ、俺の領地をめちゃくちゃにしようとしておきながら、金がねぇから払わねぇって開き直りやがったのか!」
隣で知らせを聞いていた領主グロックが、苛立ちを隠さずに立ち上がった。彼は腰の剣をガチャリと鳴らし、執務机を拳で叩く。
グロック:「カナ、もう我慢ならねぇ。あいつの喉元に、この辺境の剣を直接突きつけてやる。今すぐ王都へ兵を出せ。あの無能の首を刎ねてやりゃあ済む話だ!」
カナリス:「閣下、落ち着いてください。……血を流して首を取っても、一銭の得にもなりません。暴力は、得るものより失うものの方が大きいです。……あの方が『金がない』と言っているのは、手元の金庫に金貨が残っていないという意味でしょう。……ですが、それは資産がないという意味ではありません」
カナリスは冷静に、別の分厚い帳簿を開いた。それは彼女がかつてメルシエ家にいた際、脳内に刻み込んだ侯爵家の収益構造のデータだった。
カナリス:「ロラン様の家を支えているのは、王都近郊にある『ヴァランソール中継港』の利権です。南方の物産が王都に入る際、必ずあそこの物流倉庫を通る。……つまり、あそこはメルシエ家にとって最大の、金を生み出す源なのです」
グロック:「要するに、あそこの港が、あいつの財布に勝手に金が流れ込む蛇口になってるってことか?」
カナリス:「ええ。閣下。兵を大きく動かす必要はありません。……私と、それから閣下の威圧があれば十分です。……『強制執行』に参りましょう。相手が蛇口を閉めないというのなら、蛇口そのものをこちらで買い取ればいいのです」
*
数日後。カナリスとグロックは、わずかな護衛を伴い、王都近郊のヴァランソール中継港へと到着した。
潮の香りと、数千の樽や麻袋が積み上げられた活気溢れる港。そこはメルシエ侯爵家の紋章が刻まれた旗が翻る、ロランの拠点だった。
港の管理事務所。港湾管理官であるレニエという男は、突然現れた辺境伯と、その顧問を名乗る女性を前に、傲慢な態度を崩さなかった。
レニエ:「……ヴァイス伯爵。わざわざ北の果てからご苦労なことだ。だが、ここはメルシエ侯爵家の直轄地。貴公のような武骨な騎士が口を挟める場所ではない。……ましてや、そこの離縁された会計士風情が、公的な帳簿に触れるなど言語道断だ」
カナリスはレニエの罵倒を、雨粒を避けるような無関心さで受け流した。彼女は鞄から、公証人の厳重な封蝋が施された一通の法的な通告書を取り出し、机の上に置いた。
カナリス:「レニエ殿。事務的な手続きを簡略化しましょう。……ここに、メルシエ侯爵家がヴァイス領に対して負っている、確定した債権の証明書があります。総額は、利息を含めて金貨8万枚に相当します」
レニエ:「……ふん、それがどうした。侯爵様は『払わん』と仰せだ。紙切れ一枚で何ができる」
カナリス:「ええ、ですから現物の権利で回収します。……この通告書に基づき、本日この瞬間をもって、ヴァランソール中継港における『全物流倉庫の管理権』および『通行税の徴収権』は、債権者であるヴァイス領主、グロカール・フォン・ヴァイスへと法的に移転しました。……今後は、私がこの港のすべての貸借を差配します」
レニエの顔から、血の気が引いていった。
レニエ:「な……移転だと!? 馬鹿な、そんな勝手なことが許されるはずが――」
グロック:「――おい」
グロックが、レニエの目の前まで上体を乗り出した。獲物を逃さない野生動物のような鋭い視線が、管理官を射抜くように凝視する。
グロック:「俺は数字はわからん。だがな、『俺の持ち物』に手を出す奴の末路はよく知っている。……この女が、この紙に書かれた通り、今日からここは俺の港だと言っているんだ。……もし異論があるなら、侯爵様に『あんたの不始末のせいで蛇口が盗まれた』と知らせてこい。……それとも、今すぐこの事務所を、物理的に粉砕してやろうか?」
グロックの放つ圧倒的な王者の覇気に、レニエは悲鳴に近い吐息を漏らし、腰を抜かして座り込んだ。
*
カナリスは、混乱するレニエを無視し、即座に港の主要な倉庫へと向かった。彼女が最初に行ったのは、倉庫の扉に新しい封印を施すことだった。
カナリス:「これより、メルシエ家の名前で入港するすべての荷を一時的に差し押さえます。……荷役人たちに伝えてください。これ以降、メルシエ侯爵家への上納金は一切不要です。その代わり、ヴァイス領が定めた適正な管理手数料を、私の用意したこの帳簿に記帳してください」
港にいた商人たちが、当惑しながらもカナリスの周囲に集まってくる。
商人:「……ベルク殿。本当に、侯爵様に金を払わなくていいのか? 後で首が飛ばないか?」
カナリス:「ご心配なく。これは公証人制度に基づく正当な権利の行使です。……むしろ、これまであなた方が払わされていた不透明な協力金。……私が精査したところ、通常の相場より2割も高い。今日からは、その2割をあなた方の利益として還元します。その代わり、この港の在庫管理は、古いものから順に吐き出すルールを徹底していただきます」
商人たちの間に、驚きと、そして隠しきれない歓喜が広がった。彼らにとって、メルシエ家は名誉を盾に金を毟り取る略奪者でしかなかったが、カナリスが提示したのは自分たちの利益を増やし、かつ透明性を確保する合理的な秩序だった。
商人たちは、次々とカナリスの用意した新しい契約台帳に、署名と拇印を刻み始めた。
*
夕暮れ時。メルシエ侯爵家の収入源であった港は、わずか数時間のうちにヴァイス領の経済的拠点へと変貌を遂げていた。
港を見下ろす丘の上で、グロックは倉庫の門に鍵がかかっていく光景を、呆れたように眺めていた。
グロック:「……カナ。お前、本当に恐ろしい奴だな。……俺が兵を率いてここを占領したって、こんなに静かに、しかも確実に連中の財布を奪うことはできなかっただろうぜ。……剣を使わずに、敵の補給路を根こそぎ奪い去るとはな」
グロックの言葉には、戦術家としての深い敬意と、それを通り越した畏怖が混じっていた。
カナリス:「……補給路を断つのは、兵法の基本でしょう、閣下。……ロラン様は今夜、王都の邸宅で、使用人たちの給与すら払えなくなっている事実に気づくはずです。……蛇口を閉める手間さえ惜しんだ結果、水源そのものを失った。……自業自得という名の、確定した不利益ですね」
カナリスは眼鏡を直し、手元の帳簿をパタンと閉じた。
カナリス:(情報の淀みを突けば、城壁を壊すより容易く敵を沈められる。双方が同じ情報を持たなければ、不当な略奪は防げない。前の職場で培った債権回収の技術が、これほど役立つとは。……さて、これで過去という名の負債を、また一つ資産へ組み替えられた)
自己資本比率100%の人生――。過去に自分を捨てた場所で、彼女は数字という名の無慈悲な刃で、侯爵家の息の根を止めたのである。
一方、王都。収入の途絶を告げる緊急の知らせを受けたロラン・ド・メルシエは、震える手で自身の金庫をこじ開けていた。そこにあるのは、もはや自らの贅沢を維持するにはあまりに心許ない、底の見えた金貨の群れだけであった。
ロラン:「……あの、愛想のない、計算機め……! 私の港を……私の財産を、よくも……!」
ロランの悲鳴は、もはや誰にも届かない。彼は怒りに任せて卓上の羽ペンをへし折ると、影に控えていた側近へ、憎悪に満ちた声で命じた。
ロラン:「王宮財務府へ使いを出せ。……辺境の女が、王都の物流を不当に支配し、国家の秩序を乱していると告発するのだ。……経済の理で戦うというなら、その外側にある『国家の権威』という名の暴力で、完膚なきまでに叩き潰してやる!」
ロランの歪んだ執念が、王宮の権力機構を動かし、カナリスを断罪するための「中央評議会」の招集へと動き始めていた。




