第15話:鉄の契約と裏切りの期待値
ヴァイス領の心臓部、巨大な石造りの穀物倉庫群。そこには、かつて領民たちが「春に皆で笑うため」に託した、命そのものである麦が静かに眠っていた。
その静寂を、不気味な軍靴の音が切り裂いた。
夜の帳に紛れ、街道から音もなく現れたのは、鉄錆色の甲冑を纏った100人の集団。王都でもその冷酷な仕事ぶりで知られる「黒鉄傭兵団」だった。彼らの手には、火を灯されるのを待つ松明と、略奪のための空の袋があった。
領主館の物見櫓からその光景を認めたグロックは、獣のような鋭い視線で腰の剣を鳴らした。
グロック:「……チッ、ネズミどころか、ドブに浸かった猟犬どもが来やがったか。カナ、あいつらはただの野盗じゃねぇ。『黒鉄』の紋章だ。王都の無能が、ついに力ずくで俺たちの貯金を奪いに来やがったな」
カナリスは、暗がりの中でも手放さなかった帳簿と羽ペンを傍らに置き、眼鏡を指で静かに直した。
カナリス:「ええ。ロラン様……。経済封鎖も偽造通貨も通用しないと悟り、ついに武力行使という、最も短絡的で費用の嵩む手段を選んだようですね。彼にとって私は、回収不能な負債として処理するには惜しい資産なのでしょう」
グロック:「理屈はいい! カナ、お前は館の奥に引っ込んでろ。俺の親衛隊を動かす。数では負けてるが、この地の地理は俺たちの味方だ。倉庫に指一本触れさせねぇよ」
グロックが駆け出そうとしたその時、カナリスの無機質だが有無を言わさぬ声が彼を止めた。
カナリス:「閣下、お待ちください。……感情で剣を抜くのは、得るものより失うものの方が多い、理に合わぬ行為です。……兵を。いえ、今日は私の伝令を1人、貸してください」
*
穀物倉庫の前。傭兵団長ヴァルグは、松明を掲げ、部下たちに合図を送ろうとしていた。
ヴァルグ:「……いいか、野郎ども。仕事は簡単だ。倉庫を焼き払い、混乱に乗じて可能な限りの麦を奪え。依頼主からは、この地を再起不能にすれば、追加で金貨500枚の報奨金が出ると約束されている」
傭兵たちが下卑た笑い声を上げたその時、暗闇から1人の少女――領主館の文官見習いに教育を施されている孤児の1人が、震える手で1通の書状を差し出した。
ヴァルグ:「あ? なんだ、ガキが。……死に損ないの領主からの命乞いか?」
ヴァルグは鼻で笑い、書状をひったくった。だが、そこに記されていたのは命乞いではなく、あまりにも事務的で、詳細な事業提案書だった。
*
書状を読み進めるヴァルグの顔から、次第に余裕が消えていった。
カナリス(書状の内容):「……黒鉄傭兵団、団長ヴァルグ殿。現在の貴殿らの契約条件を、私の経験に基づく予測計算に照らせば、この任務は貴殿らの組織を3年以内に破綻させるリスクが極めて高いと判断します」
ヴァルグ:「……なんだ、この数字の羅列は……!?」
書状には、今回の襲撃を完遂した場合の短期的な収益と、それに伴う将来的な損失が赤裸々に比較されていた。
カナリス(書状の内容):「成功報酬の金貨500枚。……しかし、ヴァイス領の防衛隊と交戦した場合、貴殿らの負傷・死亡率は推定3割。負傷した傭兵を使い捨てる従来のやり方では、組織の看板に傷がつき、将来的な人材確保の費用が跳ね上がります。……何より、雇い主であるメルシエ侯爵家の資金繰り表を私は把握しています。彼らに、その報奨金を支払う手元の現金は、もはや存在しません」
ヴァルグの隣にいた副団長が、眉を顰めて覗き込む。
副団長:「団長……。確かに最近、メルシエ家からの前払金が銀貨混じりになっていやがる。あいつら、本当に金を持ってねぇのかも知れん」
ヴァルグは沈黙し、書状の後半――カナリスが提示した対案に目を向けた。
*
カナリス:「……お待たせしました、ヴァルグ殿。……いえ、正規雇用の候補者様」
倉庫の影から、グロックを伴ったカナリスが姿を現した。彼女は泥に汚れるのも構わず、ヴァルグの目の前まで歩み寄る。
カナリス:「提案の続きです。……私は貴殿らを、ヴァイス領の常設警備員として正規雇用する際の終身雇用契約案を作成しました」
ヴァルグ:「……正規雇用だぁ? 俺たちのような荒くれ者を、街の番人にでもするつもりか」
カナリス:「単なる番人ではありません。……物流の動脈を守る資産防衛の専門家です。……貴殿らが怯えているのは、戦場での死ではありません。……負傷して動けなくなった時、ゴミのように捨てられる将来の不安ではないですか?」
ヴァルグの瞳が、一瞬だけ揺れた。傭兵という職業の最大の弱点――生活保障の欠如。それを、この眼鏡の女は正確に突いてきた。
カナリス:「私が提示する福利厚生の内容です。第一に、積立方式による負傷退職金制度。給与の一部を天引きし、領主館の麦を裏付けとした資産で運用することで、引退後の生活を保証します。第二に、本人死亡時の遺族年金。第三に……このヴァイス領での永住権と家族の居住地の提供です」
ヴァルグ:「……バカな。そんな費用、どこから出す」
カナリス:「……簡単な引き算です。……貴殿らを敵に回して戦う場合の戦費と、負傷した領民が生み出せなくなる利益、そして壊された施設の修繕費用。……これらを合算した損害額を、貴殿らの人件費へ振り替えるだけです。……無意味な破壊をして不確実な報酬を待つより、この地を豊かにし、その余剰から確定した未来の資産を得る。……賢明な経営者である貴殿なら、どちらの価値が高いか、理解できるはずですが?」
沈黙が流れる。傭兵たちの掲げる松明の火が、風に揺れる。
グロックは、隣で冷徹に「人生の貸借対照表」を説くカナリスの横顔を見て、呆れたように、しかし誇らしげに笑った。
グロック:「……おい、団長。悪いようにはさせねぇ。俺は嘘が嫌いだ。この女の数字に嘘がねぇのは、俺の民たちの腹が膨らんでるのが証拠だ。……てめぇら、死ぬまで使い潰される王都の道具でいたいのか。それとも、俺と一緒にこの地で家族として生きていく度胸があるのか、どっちだ!」
ヴァルグは、松明を地面に投げ捨てた。それは、力による支配が、雇用契約という名の信頼のシステムに屈した瞬間だった。
ヴァルグ:「……ケッ。……理屈っぽい女だ。……だが、俺の部下たちの死後の帳尻まで計算してくれる雇い主は、今まで1人もいなかった」
ヴァルグはカナリスが差し出した羊皮紙――鉄の契約書を手に取り、その重みを確認するように握りしめた。
ヴァルグ:「……メルシエのクソ野郎に伝えてやれ。……あんたの雇った兵は、たった今、この地と命の契約を結んだ。あんたの空手形じゃ、もう俺たちの足は動かせねぇよ、とな」
*
翌朝。王都、メルシエ侯爵邸。
ロラン・ド・メルシエのもとに届いたのは、ヴァイス領壊滅の知らせではなく、1通の解雇通知書と、傭兵団を返して欲しければ「これまでの不当な嫌がらせに対する損害賠償金」を支払えという、容赦のない請求書だった。
ロラン:「……裏切った……? 俺が金を出して雇った兵が、あの女に……寝返ったというのか!? あんな、愛想のない計算機のような女に!」
ロランの叫びは、もはや誰にも届かない。彼の足元では、メルシエ家の誇りであった家門の帳簿が、ついに維持不可能な赤字を垂れ流し始めていた。
不渡りという名の破滅が、すぐ背後まで迫っていることにも気づかず、ロランは狂ったように財務府への使いを命じる叫び声を上げ続けていた。
一方、ヴァイス領。朝日を浴びる穀物倉庫の前で、カナリスは新しい警備隊となったヴァルグたちに、備品管理の徹底を命じていた。
グロック:「……カナ。お前、本当に武力を契約書1枚で絡め取っちまったな。……俺、お前がいつか世界中を書類だけで飲み込んじまうんじゃねぇかと怖くなってきたぜ」
カナリス:「……飲み込みませんよ。維持費用が嵩みますから。……私はただ、誰にも脅かされない自分の人生を、一銭の狂いもなく記したいだけです」
カナリスは眼鏡を直し、再び帳簿を開いた。
カナリス:(……想定通り、人的資源の確保による領地の防衛力強化は完了。次は、この契約の正当性を認めさせるために、王都の古い法理を上書きしなくては。双方が同じ情報を持たなければ、不当な略奪は防げない。前の職場で学んだリスク管理の真価を問うのは、これからだ)
自己資本比率100%の人生――。彼女の歩む道には、もはや過去の影を差し込む余白すら残っていなかった。




