第11話:隠れ田の真相と地籍の槍
ヴァイス領の東端、隣接するプショ領との境界には、領内でも指折りの肥沃な湿地帯が広がっていた。かつてはただの泥濘であったが、カナリスが排水路の再設計を指示したことで、今や黄金の実りを約束する一等地に生まれ変わろうとしていた。 だが、そこに不穏な影が差した。 プショ領主、プショ伯爵。王都の元夫ロランと太いパイプを持つこの男が、私兵を引き連れて境界線に現れたのだ。
プショ伯爵:「……いいか、よく聞け! 我が家に伝わる古き記録によれば、この湿地帯は『三つの大岩を繋ぎ、古き樫の木が影を落とす地』までがプショの領土であると記されている! ヴァイス伯、貴公はこの豊かな大地を不当に奪い取っているのだ!」
馬上で気炎を吐くプショ伯爵の背後には、抜剣した騎士たちが並んでいた。武力による威圧――最も古典的な領土簒奪の手法だった。
グロック:「あ? 岩だの木だの、何年前の話をしてやがる。ここは俺が親父から引き継いだ時からヴァイスの土だ。文句があるなら、そのふざけたヒゲを毟ってからかかってこい!」
グロックが愛剣の柄に手をかけ、一触即発の空気が流れた。グロックの直感は、相手が最初から「喧嘩」を売りに来ていることを察知していた。
カナリス:「――閣下、少々お待ちを。……感情で剣を抜くのは、得るものより失うものの方が大きいです」
人だかりを割って、髪を靡かせたカナリスが歩み出た。彼女の両脇には、数人の若手文官たちが、見たこともない奇妙な道具を抱えていた。精緻に目盛りが刻まれた長い棒と、均一な長さの鉄の鎖だった。
カナリス:「プショ伯爵。……あなたの仰る『古き記録』とは、百二十年前の寄進状のことですね。確かにそこには地形に基づいた境界の記述があります」
プショ伯爵:「ほう、話のわかる女だ。ならば、この地を返してもらおうか」
カナリス:「……いいえ。その記録こそが、あなたがこの地を侵略している証拠です。閣下、棒を立ててください」
カナリスの指示に従い、文官たちが湿地のぬかるみに正確な角度で測量棒を突き立てていった。
グロック:「おい、カナ……。その棒を地面に突き刺して、何を踊っているんだ? あいつ、めちゃくちゃ怒ってるぞ」
カナリス:「閣下、これは遊びではありません。……『槍』です。物理的な武力よりも鋭く、相手の逃げ道を、一点の狂いもなく貫くためのものです」
カナリスは金縁の眼鏡を指で支え、手元の分厚い地籍台帳を開いた。
カナリス:(……想定通りです。境界線が曖昧なのは、情報の拠り所が『人の記憶』や『自然物』という不安定な変数に基づいているから。不動産担保評価の基本は、現物と図面の照合による『真実の確定』です。つまり、目に見える証拠を揃えて、誰も言い逃れできない状態にすることです)
カナリスは泥に汚れるのも厭わず、自ら鎖を握り、文官たちに指示を飛ばした。
カナリス:「ここから北へ30m。そこにある埋没した石碑を掘り起こしてください。……プショ殿。あなたの先代が、五十年前の氾濫に乗じて、本来の境界石を内側に3m移動させた形跡が、土層の重なり具合から明らかになっています」
プショ伯爵:「な、何をデタラメを! 泥の下にある石ころの位置が変わったなどと、算術の遊びで私を脅すつもりか!」
プショ伯爵は顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。しかし、カナリスの表情は冷徹なままだった。
カナリス:「……そう仰ると思いました。では、証拠をもう一点、差し上げましょうか。プショ殿。測量のついでに、あなたの領地側の収穫記録も逆算させていただきました。……大変興味深い不整合がありましたよ」
プショ伯爵:「収穫だと? 貴様に我が領の何がわかる!」
カナリス:「あなたの帳簿では、この境界付近は『生産性のない荒地』として王都の財務府徴税局に申告されていますね? ……ですが、私の精緻な測量によれば、そこには既に六ヘクタールに及ぶ見事な隠し田が存在します。つまり、あなたは国に内緒で、こっそり私腹を肥やしているわけです」
プショ伯爵:「ぐ、ぬ……。そ、それは、たまたま今年だけ開墾がうまくいっただけで……!」
カナリス:「……言い訳は、王都の監査官に直接なさってください。この測量図と、あなたの虚偽申告の証拠。私がこれを王都へ送った場合、メルシエ侯爵……ロラン様は、果たしてあなたを救ってくれるでしょうか? 彼は今、自分の家の赤字を消すのに必死なはずですが」
沈黙。風の音だけが湿地帯に響いた。 カナリスが提示したのは、単なる土地の所有権争いではなかった。プショ伯爵が最も恐れる「脱税の摘発」という、法的な死刑宣告だった。
プショ伯爵:「……ぐ、ぬぬ……。き、記録の解釈に、重大な誤解があったようだ! 今日のところは……今日のところは引き上げる!」
プショ伯爵は、捨て台詞を残して、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
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夕暮れ時。泥にまみれた測量道具を片付けるカナリスの横で、グロックが立ち尽くしていた。
グロック:「カナ、お前……。あんな長い棒を立てただけで、あいつを追い返したのか。……正直、何が起きたのかさっぱりわからんが、お前のその槍、俺が振り回す剣よりよっぽど怖いな。……だが、助かったよ。あいつらと殺し合いになれば、せっかくの麦が台無しになるところだった」
グロックは無造作にカナリスの頭を撫でようとして、彼女の冷やかな視線に気づき、慌てて手を止めた。
カナリス:「……距離が近すぎます。……それと閣下、この測量データにより、この土地の資産価値は確定しました。今後はこれを担保に、王都の商人から低金利での融資を引き出す交渉に入ります。……自立への道のりは、一歩も妥協できませんから」
不毛の地に突き立てられた「地籍の槍」。 それは、暴力が支配する理を、会計士の論理という名の秩序で書き換えた、歴史的な一打であった。
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一方、王都メルシエ侯爵邸。 暗い書斎で、ロラン・ド・メルシエは手元の報告書を握りつぶしていた。プショ伯爵が辺境の地で一蹴されたという報せは、彼の歪んだ自尊心をさらに逆なでした。
ロラン:「……算術の魔女め。土地の権利や脱税の証拠を盾に、どこまで増長するつもりだ」
ロランは卓上のベルを鳴らし、控えていた家臣を呼び寄せた。彼の瞳には、かつての妻への執着と、冷徹な殺意が混ざり合っている。
ロラン:「財務府に使いを出せ。……辺境の地で勝手に膨れ上がっている『不吉な富』を、王国の名において根こそぎ吸い上げる準備を始めるのだ。経済の『理』を語るなら、その理によって、二度と立ち上がれぬよう叩き潰してやる」
王都の権力の中枢が、ロランの卑劣な手引きによって、ヴァイス領の喉元へその手を伸ばし始めようとしていた。




