第10話:算術の魔女と神の秩序
ヴァイス領に、不吉な「黒」が舞い降りた。
冬を前にした静かな朝、領地の入り口に現れたのは、王都の紋章ではなく、天秤と剣を象った宗教裁判所の紋章を刻んだ黒塗りの馬車だった。馬車を護衛するのは、抜き身の剣を携えた鉄色の甲冑を纏う「聖基騎士団」。その異様な威圧感に、広場で作業をしていた領民たちは息を呑み、道をあけ、怯えた目で見守った。
馬車から降り立ったのは、カラスのように真っ黒な法衣を纏った男、異端審問官マルローだった。
マルロー:「……風の噂に聞いた通りだ。この地には、不浄な術で民を惑わす『澱み』が満ちているな」
マルローは、広場の掲示板に掲げられたカナリスの「共同耕作カレンダー」を指差し、不快そうに目を細めた。そこには、文字の読めぬ農民たちのために、色分けされた石の印や幾何学的な記号で、種籾の配給量と作付けの順序が記されていた。
領主館のテラスからその光景を認めたカナリス・ヴァン・ベルクは、一度だけ深く溜息をつき、髪を整えた。
カナリス:(……想定内のリスクとはいえ、最悪のタイミングです。……自分の無能を棚に上げて、ついに教会まで道具に使い始めた)
隣で腰の剣を鳴らしたグロックが、野性的な怒りを目に燃えさせていた。
グロック:「カナ、あいつらはなんだ。王都の使者ならまだしも、あの黒ずくめの連中は、俺の民を罪人を見るような目で見ているぞ」
カナリス:「宗教裁判所の審問官です。……閣下、ここは私に任せてください。彼らの『神の理』は、時に王の法すら上書きします。剣で追い払えば、この領地そのものが『異端の地』として焼き払われることになりかねません」
カナリスはグロックを制し、自ら広場へと歩み出た。
*
広場の中央、マルローはカナリスが作ったカレンダーの前に立ち、集まった領民たちに向けて声を張り上げていた。
マルロー:「民たちよ、騙されてはならぬ! この不気味な図形、得体の知れぬ数字……これらはすべて、お前たちの魂を支配し、神の与えた天運をねじ曲げるための『算術の魔術』だ! この女……カナリス・ヴァン・ベルクは、王令第24条第3項という法の抜け穴を悪用し、神の秩序である『家父長の庇護』を拒絶している。それは明白な神への叛逆である!」
領民たちの間に、動揺が走る。彼らにとって「魔術」や「異端」という言葉は、飢えと同じくらい恐ろしい死の宣告だった。
マルローはカナリスの姿を見つけると、手にした錫杖を石畳に突き立てた。
マルロー:「カナリス・ヴァン・ベルク! 貴様を『算術の魔女』として拘束する。貴様がこの地に持ち込んだ不浄な帳簿はすべて没収し、火刑に処さねばならぬ!」
聖基騎士たちがカナリスを取り囲む。グロックが即座に割り込もうとしたが、カナリスは一歩前へ出ると、金縁の眼鏡を指で静かに直し、マルローの目を真っ向から見据えた。
カナリス:「……審問官殿。あなたの仰る『不浄』とは、具体的にどの数理を指してのことでしょうか。まさか、一と一を足して二にする行為そのものを、神への叛逆と仰るわけではありませんよね?」
マルロー:「口を慎め! 神の意志は聖職者を通じて示されるもの。文字も数字も解さぬ民に対し、このような怪しげな記号で配給を操る行為は、神から与えられた試練を人間の傲慢で回避しようとする『術』に他ならぬ!」
カナリス:「……それは驚きました。聖典、箴言第11章第1節にはこう記されています。『偽りの秤は主の憎むところ、正しい分銅は主の喜ぶところである』……と。審問官殿、あなたはこの言葉を、単なる比喩だとお考えですか?」
マルローは一瞬、言葉に詰まった。カナリスの言葉は、冷徹な会計士のものではなく、教義を熟知した実務家の重みを持っていた。
カナリス:「私がこの地で行っているのは、魔術ではありません。この地の大地が、神の恵みとしてどれだけの麦を実らせたか。そして、冬を越すために民がどれだけを分かつべきか。その『正しい分銅』を明らかにしているだけです。……帳簿を整え、貸借を一致させることは、神が世界を創りたもうた際の完璧な秩序を、この卑俗な地上に再現しようとする、最も誠実な祈りの行為ではありませんか?」
マルロー:「……詭弁を! 数字ごときが神の秩序だと!?」
カナリス:「ええ。数学とは神が世界を書くために用いた言語であり、整合性のない数字こそが、悪魔が好む『混沌』です。……ところで、審問官殿」
カナリスは懐から、一冊の薄い、しかし丁寧に整理された帳簿を取り出した。それは、彼女がヴァイス領に到着した直後、領主の顧問として精査した「地域の教会と修道院への寄進台帳」の写しだった。
カナリス:「あなたが滞在されている修道院、およびその直轄教区の昨年度の財務状況を拝見しました。……大変失礼ながら、そこには神の秩序とは程遠い『混沌』が渦巻いているようですよ」
広場の空気が、凍りついた。
カナリス:「民から預かった『救済のための寄進金』。その三割が、名目上の『聖遺物の修復費』として計上されていますが、該当する修道院の倉庫にあるのは、十年前から手入れもされていない錆びた燭台だけです。さらに、その資金の流れは、あなたの親族が営む王都の貴金属商へと、不自然なほど速やかに移動しています。……複式簿記の論理で逆算すれば、その『使途不明金』の終着点は、今あなたの腰にある、その豪華な装飾を施した革袋の中身と、ぴったり一致しますが?」
マルローの顔から、急速に血の気が引いていった。
カナリス:「……感情で異端を捏造するのは、プロのすることではありませんね。もし私が『魔女』だというのなら、この帳簿を王都の最高評議会、あるいはローマの監査枢機卿へ送りましょう。神の秩序に背いたのは、私の正確な数字か、それともあなたの『淀んだ懐』か。……どちらが正しいか、確定した数値によって引導を渡して差し上げます」
沈黙。 圧倒的な、論理の暴力。
マルローは反論しようと口をパクつかせたが、カナリスが提示した帳簿の一行……自分の汚職を寸分の狂いもなく言い当てた数字の羅列に、完全に逃げ道を塞がれていた。
グロック:「――おい、審問官様よ。顔色が悪いな。算術の魔術に当てられたか?」
グロックが、獲物を仕留めた獣のような不敵な笑みを浮かべて歩み寄る。
グロック:「俺の顧問が言った通りだ。この女の数字は、この地の民を生かすための『神の貯金』だ。お前の身勝手な『不浄』というレッテルで汚せるほど安かない。……さっさとその黒い馬車に乗り込んで、王都へ帰れ。さもなきゃ、その不整合な首を、俺の剣で物理的に『整理』してやるぞ」
聖基騎士たちも、自分たちの主である審問官の動揺を察し、剣を下ろした。マルローは震える手で錫杖を握りしめ、逃げるように馬車へと戻っていった。
*
夕暮れ時。広場から黒い影が消え、領民たちは再び作業へと戻った。だが、彼らがカナリスを見る目は、もはや恐怖ではない。自分たちを救うために「神の権威」を論理でねじ伏せた、冷徹だが最強の「味方」への、畏怖と信頼が混ざり合ったものへと変わっていた。
グロック:「……帰ったな。あの黒装束」
カナリスは答えなかった。視線は、審問官の馬車が消えた街道の向こうではなく、もっと遠く、隣接する領地との境に広がる湿地帯へと向けられていた。
グロック:「カナ?」
カナリス:「……閣下。一つ確認させてください。ヴァイス領と東隣のプショ領の境界は、正式な測量に基づいて確定していますか」
グロック:「測量? 知らん。昔から、あの湿地の手前が境だと言われているが、証文があるかどうかは……」
カナリス:「ないのですね」
彼女の声から、感情が抜け落ちた。それは怒りでも落胆でもなく、算術の魔女が新たな「不整合」を発見した時の、静かな臨戦態勢だった。
カナリス:「あの湿地帯は、私が排水路の再設計を指示してから、地力が大きく変わっています。資産価値が確定しつつある今、所有権が曖昧なままでは格好の標的になります。……もしこの土地の所有権が法的に曖昧なまま放置されているとすれば、プショ伯爵家はいつでも『慣習的な領有』を主張して境界を動かせます。今回のロランの動きと、タイミングが一致しすぎています」
グロックの目が、細くなった。
グロック:「……つまり、次の手はもう打たれているというのか」
カナリス:「可能性の話です。ただ」
カナリスは帳簿を閉じ、湿地帯へ向けていた視線をグロックに戻した。
カナリス:「一つ確定していることがあります。私たちが測量を終える前に、誰かがその湿地に杭を打ちに来るとすれば、それは今夜かもしれません」
夜風が、広場の松明をゆらした。
グロックは無言で剣の柄に手をかけた。




