第12話:北の経済圏と黄金の引換券
ヴァイス領の中央広場は、かつての静かな絶望が嘘のように、活気に満ち溢れていた。
広場の中心には、青銅で作られた「基準枡」と「公定天秤」が据え付けられている。他領から訪れた商人が、持ち込んだスパイスの袋をその天秤に乗せ、ヴァイス領の計量官が領主の刻印を確認した。
「よし、正確に1リブラだ。信義に基づき、取引を認めよう」
商人は安堵の溜息をつき、地元の農民と握手を交わした。かつてこの地を支配していた「単位の不統一」という名の見えない障壁は、カナリスの手によって取り除かれていた。
領主館のバルコニーから、カナリスは金縁の眼鏡を指で支え、その光景を見下ろしていた。
グロック:「……なぁカナ、見てみろよ。あいつら、俺の顔を見るよりあの青銅の箱を見る時の方が、ずっといい笑顔をしてやがる。領主としては少し複雑だがな」
隣に立つグロックが不敵に笑った。
カナリス:「当然です。閣下の人望は素晴らしいものですが、商人は人望では飯を食えません。彼らが求めているのは予測できる安心という名の資産です。誰が相手でも、どの場所でも、同じ1単位が同じ価値を持つ。その理こそが、商流を呼び込む最強の餌なのです」
カナリスは手元の帳簿に目を落とし、最新の流通データを指でなぞった。
カナリス:(……ここまでは計画通り。市場の透明性を高めたことで、ヴァイス領は北の物流の拠点としての地位を確立しつつある。市場の透明性を高めたことで、ヴァイス領は北の物流の拠点としての地位を確立しつつある。双方が同じ情報を持てば、騙し合いや無駄な確認が消え、商売の摩擦は劇的に減る。……だが、豊かになればなるほど、外敵からの攻撃は激しさを増すはずだ)
*
その懸念は、数日後の朝、現実のものとなった。
市場に並ぶ商品の価格が、一晩で3割も跳ね上がったのだ。商人は狼狽え、領民たちは「また飢えが来るのか」とパニックに陥りかけていた。
原因は、王都から流れ込んできた「新しい銀貨」だった。
カナリスは広場で、商人が支払いに使おうとした銀貨を一枚手に取り、その重量を精密な天秤で量った。さらに、銀貨の縁を指でなぞり、金属を叩いた時の音に耳を澄ませる。
カナリス:「……やはり。王立鋳造所による銀の含有量を減らす操作が行われたようです」
グロック:「なんだ、その呪文みたいなのは。見た目はキラキラしてるが、偽物なのか?」
グロックが怪訝そうに銀貨を覗き込む。
カナリス:「偽物ではありません。王家が本物として発行した、質の悪いお金です。閣下、この銀貨の銀が含まれる割合は、以前のものの半分もありません。銅と鉛を混ぜて、枚数だけを水増ししているのです。……これは、実質的な略奪です。王都の借金を、お金の価値を薄めることで地方に押し付けているのです」
カナリスの脳内には、前の人生の職場で見た「急激な物価高騰による企業の連鎖倒産」の悪夢が蘇っていた。
カナリス:(質の良い古い銀貨は人々が手元に溜め込み、この価値のない新しいコインだけが市場に出回る。そうなれば、物価は際限なく高騰し、民の暮らしが壊れていく。そうなれば、物価は際限なく高騰し、ヴァイス領の民が物を買う力が、根こそぎ奪われる。……ロラン、あなたが財務府に手を回したのですね。この地の成長を、お金の暴力で吸い尽くすつもりですか)
グロック:「難しい理屈はいい。……つまり、このままだと、俺の連中の腹がまた空っぽになるってことか?」
グロックの瞳が、獲物を睨む獣のように鋭くなった。
カナリス:「ええ。ですが、解決策はあります。……王家の発行する嘘のコインに依存するのをやめればいいのです」
*
カナリスが打ち出したのは、前代未聞の防衛策だった。
彼女は領主館の備蓄庫に眠る膨大な麦――以前、食糧を積み立てた「愛の貯金」を担保に、一葉の紙片を発行した。
カナリス:「本日より、領内での大きな取引にはこの『穀物引換券』を使用します。この紙一枚は、領主館の倉庫にある麦30キログラム分と、完全に同じ価値として交換されることを私が保証します」
広場に集まった領民たちは、差し出された紙切れを不審げに見つめた。
領民:「……ベルク殿。こんな紙切れが、本当に銀貨の代わりになるのかい? 王様の顔も刻まれていないのに」
そこへ、王都から派遣された工作員と思われる男たちが、野次を飛ばした。
工作員:「騙されるな! 領主館は、お前たちから本物の銀貨を巻き上げて、価値のない紙を掴ませるつもりだぞ! 紙なんて、火を付ければ灰になる。麦なんて、ネズミに食われればおしまいだ!」
領民たちの間に、動揺のさざ波が広がる。
グロックは、カナリスの隣に一歩踏み出した。彼は工作員たちの扇動を、その圧倒的な覇気で黙らせた。
グロック:「――黙れ、野良犬ども。その汚い口で俺の顧問を侮辱するな」
グロックは、カナリスが作った引換券を一枚、高く掲げた。
グロック:「みんな、聞いてくれ! この紙は、ただの紙じゃない。お前たちが汗水垂らして育てた、あの黄金の麦そのものだ!」
グロックの声は、理屈を超えて民衆の心に直接響く。
グロック:「王都の連中が発行した銀貨は、中身がスカスカで、パン一つ買うのにも山ほど必要になっちまった。だが、このカナの引換券は違う。これを持っていれば、いつでも、誰でも、倉庫の麦と交換できる。……いいか、王都の金なんてのは、遠い国の都合で価値が変わる幻だ。だが、このヴァイスの土から生まれた実りは、俺たちの本当の富だ。この紙は、その富をお前たちの手元に置いておくための、俺とカナの約束なんだ!」
領民たちは顔を見合わせ、それから自分たちが耕した畑の、土の匂いを思い出した。グロックという、命を預けられる男が保証し、カナリスという、一銭の狂いも許さない女が管理する数字。
「……領主様がそう言うなら。何より、あの会計士様の数字に、今まで嘘はなかったもんな」
一人の農民が引換券を受け取ると、その流れは瞬く間に伝播した。
カナリスは、さらに互いの貸し借りを帳簿上で相殺し合う仕組みを市場に展開した。領内の有力商人たちを集め、現金の受け渡しを最小限に抑えることで、王都の質の悪いお金による物価高騰の影響を物理的に遮断したのだ。
*
数週間後。
ヴァイス領は、不況に沈む王都を尻目に、北の独立した「黄金の要塞」へと進化を遂げていた。 他領の硬貨を信じない商使たちが、むしろ「ヴァイスの引換券」を求めてこの地へ集まるという、皮肉な逆転現象が起きていた。
王都、メルシエ侯爵邸。
ロラン・ド・メルシエは、北から届いた最新の報告書を、握りつぶして床に叩きつけた。
ロラン:「……馬鹿な。お金の質を落とすという国家の力すら、あの女は紙と穀物だけで無効化したというのか!? 辺境の泥の中に、王都を上回る経済圏を創り上げるなど……!」
報告書には、ヴァイス領が独自の引換券と物流網で、周辺領地すら飲み込む巨大な経済の拠点となった事実が記されていた。
ロランの瞳から、理性の光が消える。
ロラン:「あの女は……カナリスは、私の所有物だ。私の家を豊かにするための、最高の商品なのだ。……法も、経済も通用しないというなら、残された手段は一つしかない」
ロランは卓上のベルを激しく鳴らし、影に控えていた私兵の隊長を呼び寄せた。
ロラン:「黒鉄傭兵団へ使いを出せ。……あの女を力ずくで奪い返す準備を始めるのだ。ヴァイスの不吉な富もろとも、根こそぎ私の帳簿へ書き換えてやる」
歪んだ独占欲が、ついに直接的な暴力という名の最悪の手を動かし始めようとしていた。




