第3話 辺境の村
森を抜けるころには、空は赤く傾いていた。
彼女の腕の中は、思ったより揺れない。
足を痛めているはずなのに、歩く速さはあまり落ちていなかった。
見上げても、彼女は前しか見ていない。
それが少し心配になる。
やがて、木々の切れ間の向こうに柵が見えた。
丸太を組んだ、小さな囲いだった。高くはないが、外を警戒するためのものだと分かる。ところどころ木の色が新しく、急いで直した跡があった。
門の前にいた見張りが、彼女を見つけて顔を上げる。
「戻ったか!」
だが、そのまま彼女の腕や足に目が行って、表情が変わった。
「おい、その傷……また出たのか」
「ホーンウルフよ」
「ちっ」
舌打ちのあと、見張りの目が俺に止まる。
「……なんだ、それ」
そりゃそうなる。
白くて、丸くて、ふわふわした何かが、女の腕にちょこんと収まっているんだから。
見られていると分かると、なんだか落ち着かない。
思わず彼女の腕の内側へ、もぞっと隠れる。
「……ぽふ」
見張りが黙る。
「鳴いたな」
「鳴いたな……」
もう一人が槍を少し上げた。
こわ。
思わず綿毛がしゅんと縮む。
「ふわ……」
「おい、今しぼまなかったか?」
「しぼんだな……」
彼女は一度だけ俺を見下ろし、それから見張りへ視線を戻した。
「中に入るわ。話はあと」
「おい、待て。なんなんだ、それは」
「……成り行きよ」
雑だな。
でも見張りは彼女の傷を見て、それ以上は止めなかった。渋い顔のまま、門を開ける。
中へ入った瞬間、空気が重いと分かった。
家は小さいが、荒れ果てているわけじゃない。
畑もある。薪も積んである。洗濯物も揺れている。
ちゃんと暮らしている村だ。
なのに、静かだった。
戸口に座る男の足には包帯。
壁ぎわでしゃがむ女は顔色が悪い。
少し離れた家の前では、年寄りが何度も咳き込んでいた。
窓の隙間から、薬草を煎じたような匂いが流れてくる。
でも薄い。何度も煮出したあとみたいな、頼りない匂いだった。
通りすがりの女たちが、彼女を見て声をひそめる。
「また怪我……?」
「薬師さまのところ、もう――」
そこで声が止まる。
俺を見たからだ。
まあ、見るよな。
俺でも見る。
別の男が、薪を抱えたまま足を止めた。
「けがには気をつけろよ。今、人手が減るのが一番きつい」
「分かってる」
彼女はそれだけ返して歩く。
少し先で、家の前にいた老婆がぼやいた。
「月花原さえ戻ればねえ……」
その一言だけだった。
でも彼女の腕が、ほんの少しだけ固くなった。
月花原。
その言葉だけが、頭に残る。
しばらくして、彼女は一軒の家の前で立ち止まった。
古いけれど、きちんと手入れされた家だった。脇には小さな畑と鉢植えが並んでいる。どれも枯れてはいないが、元気もない。
彼女が戸を開ける。
「ただいま」
すぐに女の人が出てきた。
「遅いから心配して――っ、怪我してるじゃない!」
その勢いのまま俺を見て、ぴたりと止まる。
「……なに、その白いの」
正しい第一声だと思う。
ぺこっとしたつもりで体を傾ける。
「ぽふ」
「鳴いた!?」
「鳴くみたい」
「そこなの!?」
彼女は靴を脱ぎながら言う。
「話はあと。先に傷」
「まったくもう……入りな」
家の中は質素だった。
木の机と椅子。小さな棚。壁際の寝台。
俺は机の上に下ろされる。
思ったより端が近い。
あ、これ落ちる。
慌てて踏ん張ったつもりが、ころんと一回転した。
「……ぽふっ」
「今、落ちかけた?」
「落ちかけたわね」
少しだけ空気がゆるむ。
女の人は慣れた手つきで彼女の傷を洗い始めた。
彼女がわずかに顔をしかめる。
「しみるよ」
「分かってる」
棚には包帯も瓶も少ない。
干してある薬草束も、思ったよりずっとわずかだった。
「残り、これだけかい……」
女の人が小さくつぶやく。
「足りる?」
「足りなくても使うしかないよ」
短いやりとりだったが、それで十分だった。
俺は窓辺を見る。
小さな鉢植えがひとつ。
白い花の株らしいが、葉先が垂れていて元気がない。
なんとなく気になって近づく。
放っておけない、ってほど大げさじゃない。
ただ、しょんぼりしてる感じが気になっただけだ。
鉢の前にふわりと浮く。
その時、胸の奥が少しだけ温かくなった。
あれ、と思った次の瞬間。
垂れていた葉が、ほんの少しだけ持ち上がった。
俺は鉢と自分の手を見比べる。
「……ぽふ?」
「どうしたんだい」
女の人が振り向く。
彼女も目を向ける。
俺は鉢を見る。二人を見る。もう一回鉢を見る。
言いたいのに言えない。出るのは空気音だけだ。
「ぽふ、ふわ」
彼女が、ふと窓辺を見つめた。
「……おばさん、その鉢」
「え?」
「少しだけ、葉が上がってない?」
女の人が近づいて眉をひそめる。
「水は昼にやったきりだけどね」
彼女の視線が、鉢から俺へ移る。
驚いた顔だった。
でも、何も言わない。
窓の外で、また咳が聞こえた。
部屋の空気が少しだけ重くなる。
女の人は手当てに戻り、彼女は黙ったまま窓辺を見た。
俺も、少し元気を取り戻した葉を見つめる。
「……ぽふ」




