第4話 シロップ
気づけば、やわらかい布の上にいた。
昨夜のことを思い出す。
村に着いて、警戒されて、家に入って、彼女の傷の手当てを見て――そのあと、どうしたんだっけ。
たぶん、途中で寝た。
机の端から落ちかけたり、鉢植えの前でじっとしたりしているうちに、緊張が切れたんだと思う。
今いるのは、小さな籠の中だった。底に古い布が敷かれていて、思ったよりちゃんとしている。落ちないし、風も直接は当たらない。
寝床、ってことか。
知らない村で、知らない家で、得体の知れないふわふわに寝る場所を作ってくれる。
それだけで、少し胸があたたかくなった。
「……ぽふ」
小さく鳴いて、体を起こす。
窓の外はもう明るい。朝だった。細い光が差しこんで、棚や机の端を白く照らしている。
部屋を見回すと、彼女はまだ寝台で眠っていた。腕には包帯。足もきっと痛むはずなのに、寝顔は思ったより静かだった。
少し安心してから、急に気づく。
体の内側が、なんだかからからする。
水、ほしい。
そう思ったところで、籠のすぐ横に浅い皿が置かれているのに気づいた。中にはきれいな水が少しだけ張られている。
用意してくれたのか。
なんとなくうれしくなって、籠からぴょこんと出る。
皿のふちに降り立つつもりが、勢いをつけすぎて前につんのめり、そのまま顔から水に突っ込みかけた。
「……ぽふっ」
あぶな。
なんとか持ちこたえて、水面をのぞきこむ。そこには白くて丸いのが映っていた。
ほんとに綿毛だな、俺。
少しだけ水を飲む。
すると、胸の奥にしみこんでいくみたいに、じんわりと力が戻ってきた。
もう一口。さらにもう一口。
昨日までの自分なら、水を飲んでこんなに元気になるなんて思わなかっただろう。けれど今は、これがずいぶん大事らしい。
体のまわりの綿毛が、少しだけふくらむ。
軽くなっていた羽毛に、空気が戻るみたいだった。
「元気になった?」
声がして、びくっとする。
振り向くと、彼女が寝台の上でこちらを見ていた。寝起きのせいか声は少しかすれていたが、目はちゃんと笑っている。
「ぽふ」
思わず、少しだけ体が弾む。
「やっぱり水が好きなのね」
彼女はゆっくり起き上がろうとして、顔をしかめた。
足の痛みを思い出したらしい。
俺は反射的にそっちへ飛びかけて、途中で止まった。
行っても、今の俺にできることはたぶん少ない。
それでも気になって、寝台のそばまで寄る。
「……ふわ」
「大丈夫よ」
そう言いながら、大丈夫じゃなさそうな顔をするの、やめてほしい。
昨日からずっとそんな感じだ。
そこへ、戸の向こうから足音が近づいてきた。
「起きたかい」
おばさんが、木の盆を持って入ってくる。湯気の立つ椀と、小さな皿が載っていた。彼女の朝食らしい。
おばさんは彼女の様子を見て、すぐに眉をひそめる。
「無理して起きなくていいのに」
「起きるわよ。寝てたって痛いものは痛いし」
「そういうところが強情なんだよ」
言いながら盆を机に置き、それから俺を見た。
「……あんたも起きてたのかい」
俺は皿のふちにちょこんと立ったまま、軽く体を揺らす。
「ぽふ」
「やっぱりその鳴き方なんだね」
おばさんは少しだけ呆れたように言って、水皿を見た。
「ああ、減ってる。飲んだんだね」
「やっぱり水で元気になるみたい」
彼女がそう言うと、おばさんは感心したように俺を見た。
「昨夜より、ちょっとふくらんで見えるね」
やめてほしい。
事実なんだけど、ふくらんでるって言われるとなんか複雑だ。
「……ぽふ」
「ほら、なんか抗議してるよ」
「分かるの?」
「なんとなくね」
彼女が小さく笑う。
昨日の夜より、その顔色は少しましだった。傷が治ったわけじゃない。足もまだ痛そうだ。けれど少なくとも、森で見たあのぎりぎりの顔ではない。
それだけで、少しほっとする。
おばさんは彼女に椀を渡してから、窓辺の鉢植えをふと見た。
「あれ」
その声に、俺もそちらを見る。
昨日、葉が少し持ち上がったあの鉢だ。朝の光を受けて、確かに昨夜よりましに見える。まだ元気いっぱいというほどではないが、葉先のしょんぼり感が少し薄れていた。
おばさんが近づく。
「気のせいじゃないね」
彼女も椀を持ったまま、窓辺へ目を向けた。
「昨日より、立ってる」
二人の視線が、ゆっくり俺へ向く。
やめて。
そんなに同時に見るのやめてほしい。ちょっと照れる。
でも、見て見ぬふりもできず、俺は鉢と自分を見比べる。
「……ぽふ」
「やっぱり、この子なのかしら」
彼女が小さくつぶやく。
「まだ決めつけるには早いよ」
おばさんはそう言ったが、声にはもう半分くらい驚きが混じっていた。
彼女はしばらく俺を見てから、ふっと息をつく。
「いつまでも『この子』じゃ呼びにくいわね」
ん?
それは、もしかして。
「名前」
彼女は椀を机に置きながら言った。
「いるでしょ、あなたにも」
俺は思わず羽をふるわせた。
名前。そうだ、まだなかった。
昨日はそれどころじゃなかったけれど、呼び名がないのはたしかに落ち着かない。
ずっと「白いの」だの「それ」だの言われ続けるのも、地味につらい。
彼女は少し考え込む。
「白くて、ふわふわで、丸い」
そこまでは事実だ。
「綿毛みたいで、雪玉みたいで……」
うん。
「でも見た目のまますぎるのも違うのよね」
分かる。
そこはなんとなく分かる。
おばさんが苦笑した。
「また考え込み始めたよ」
「大事なことでしょ」
「まあねえ」
彼女は窓辺の鉢、俺、水皿を順番に見た。
それから、少しだけ首をかしげる。
「なんだか、見てると甘い感じがするのよね」
甘い?
どういう意味だ。
「白くて、やわらかくて……それに、ちょっと元気をくれる感じ」
そんなふわっとした理由で名前つける?
いや、でも嫌ではない。
嫌ではないどころか、けっこう真剣に考えてくれてるのが伝わる。
彼女は俺を見て言った。
「シロップ。どう?」
シロップ。
口の中で転がるみたいな、やわらかい音だ。
白くて、甘くて、少しだけあたたかい響き。
変な名前ではない。むしろ、今の俺には妙にしっくりきた。
「ぽふっ」
「気に入ったみたい」
「そう見えるね」
おばさんの声も、少しやわらいでいた。
彼女は小さく笑って、もう一度言う。
「よろしくね、シロップ」
彼女は食事に戻り、おばさんは包帯や瓶を片づけ始める。
その横で、俺はもう一度窓辺の鉢に近づいた。
名前をもらったこと。
小さな鉢が、ほんの少し元気を取り戻したこと。
その二つだけで、朝の光が少しやわらかく見える。




