第7話 ヒロインの空白
静かすぎる。
それが、レティシアの最初の感想だった。
朝の学園。
中庭の噴水。
柔らかな陽光。
すべては以前と変わらない。
違うのは――
誰も、彼女を哀れまないこと。
「レティシア様、おはようございます」
令嬢たちは微笑む。
優しい。
丁寧だ。
けれどそこには、あの熱がない。
以前は違った。
囁きがあった。
「またリディエル様が……」
視線が集まり、空気が張り詰める。
そして彼女は中心に立つ。
守られる存在。
耐える少女。
正しきヒロイン。
今は。
ただの穏やかな令嬢の一人。
(……平和、なのに)
望んでいたはずだ。
悪役令嬢のいない日常。
怯えずに過ごせる日々。
なのに、胸の奥にぽっかりと穴が開いている。
図書室で本を開く。
以前なら、背後に視線を感じた。
冷たい、鋭い視線。
振り返れば、金髪の悪役令嬢が優雅に微笑んでいる――
そんな想像を、何度もしていた。
だが今は、誰もいない。
静かだ。
安全だ。
そして、退屈だ。
「レティシア様、今度のお茶会ですが」
「……え? あ、はい」
会話は続く。
笑顔も浮かぶ。
けれど、心はどこか遠い。
放課後、庭園のベンチに腰掛ける。
風が薔薇を揺らす。
あの日の断罪を思い出す。
「早く断罪してください」
あの声。
あの笑顔。
あれは、敗北者の顔ではなかった。
(本当に、嫌だったのかしら……?)
レティシアは自問する。
リディエルは何もしていなかったのではないか。
少なくとも、確かな証拠はなかった。
怖かったのは事実だ。
だが――
怖いと思うことで、自分は守られていたのではないか。
敵がいるから、味方ができる。
悪役がいるから、ヒロインになれる。
その構図。
その安心。
今は、ない。
遠くで令嬢たちの笑い声が上がる。
彼女の名は呼ばれない。
呼ばれても、ただの参加者。
中心ではない。
「レティシア様?」
振り向くと、侍女が心配そうに立っていた。
「お疲れですか?」
「いいえ」
笑う。
完璧な笑顔。
「とても、穏やかですわ」
嘘ではない。
けれど本当でもない。
穏やかさは、波がないこと。
けれど、波がなければ船は進まない。
自室に戻る。
机の引き出しを開けると、古い手紙が出てきた。
差出人はない。
ただ、優雅な筆跡で一行。
『紅茶は熱いうちに飲むべきですわ』
いつか、廊下で渡されたもの。
嫌がらせだったのか。
忠告だったのか。
今となってはわからない。
レティシアは小さく笑った。
「あなたは……今、何をしているの」
辺境。
港町。
海。
あの笑顔を思い出す。
自分は王都にいる。
守られた場所に。
それなのに。
自由なのは、どちらだろう。
窓の外、夕暮れが広がる。
色の薄い空。
静かな学園。
敵がいない世界は、優しい。
そして同時に、空虚だった。
レティシアは初めて思う。
――わたしは、誰の物語なのだろう。
その問いだけが、胸に残った。




