第32話 嵐
第七島に滞在して三日目。
空は朝から、不穏な色をしていた。
青は薄く濁り、水平線の彼方に黒い雲が層を成している。
「嫌な空ですわね」
巨木の根元で地図を書き留めていたリディエルが顔を上げる。
風向きが、変わっていた。
湿り気を帯びた重い風。
「戻るか?」
ライベルトが空を見上げる。
「いえ」
リディエルは首を振る。
「この島で嵐を経験しておきたいのです」
「経験しておきたい、で済む規模ではなさそうだが」
言葉の通りだった。
遠くで雷鳴が鳴る。
海面がざわめき始める。
◇
夕刻。
嵐は突然牙を剥いた。
叩きつける豪雨。
視界を裂く稲光。
風は叫ぶように唸り、巨木の枝を大きく揺らす。
船は沖に停泊させ、島の高台へ退避していたが――
「これは……」
リディエルの声がかき消される。
今まで経験したどの嵐よりも激しい。
嵐の孤島での共闘を思い出す。
だが、あのときとは規模が違う。
「岩陰へ!」
ライベルトが叫ぶ。
彼は迷わずリディエルの手を掴み、風上を見極めながら移動する。
足場はぬかるみ、滑る。
強風に身体が持っていかれそうになる。
雷鳴。
地面が震える。
「っ……!」
突風が吹き抜ける。
リディエルの体がぐらりと傾いた。
崖側。
咄嗟に腕を伸ばす。
だが、足を取られた。
「リディエル!」
次の瞬間、強い力が腰を引き寄せる。
ライベルトが彼女を抱き寄せ、岩に叩きつけられるようにして体勢を固定した。
衝撃。
だが離さない。
「大丈夫か!」
「……ええ」
息が乱れている。
心臓が早鐘を打つ。
雨が容赦なく打ちつける。
だが彼の腕は揺るがない。
「無理をするな!」
珍しく怒気を含んだ声。
「この嵐は、想定を超えている!」
さらに雷。
巨木の枝が折れ、飛ばされる。
自然は容赦がない。
国も、制度も、演説も通じない。
ただ圧倒的な力。
「……自然は、物語を読んでくれませんわね」
リディエルが苦笑する。
「当然だ!」
ライベルトは歯を食いしばる。
「だからこそ、支える!」
その言葉に、彼女は目を見開く。
「私は王太子だ」
風の中で叫ぶ。
「国も守る。制度も守る」
「だが今は違う!」
さらに強く抱き寄せる。
「お前を守る!」
雨が頬を打つ。
彼の瞳は真剣そのものだった。
「お前が自由に歩けるよう、支えると言った」
「ならば嵐でも支える!」
リディエルの胸が、強く揺れる。
保留にした答え。
距離を保ってきた理由。
だが今――
彼は肩書きでも義務でもなく。
ただ本気で、隣にいる。
「……殿下」
「喋るな、体力を温存しろ!」
「命令ですの?」
「そうだ!」
思わず笑いそうになる。
だが風がそれを許さない。
二人は岩陰に身を寄せ、嵐が通り過ぎるのを待つ。
長い、長い時間。
やがて。
風が弱まる。
雨が細くなる。
雷が遠ざかる。
静寂が戻る。
嵐は去った。
◇
夜。
焚き火の前。
濡れた衣服を乾かしながら、二人は黙って座っている。
火の音だけが響く。
「……怖かったですわ」
ぽつりと、リディエルが言う。
「だろうな」
「ええ」
素直に頷く。
「ですが」
彼を見る。
「支えられていると、実感いたしました」
ライベルトは息を呑む。
「それは……」
「勘違いなさらないで」
すぐに付け加える。
「答えはまだ保留です」
「分かっている」
苦笑。
「だが」
彼女は焚き火を見つめる。
「嵐の中で、隣にいてほしいと思ったのは事実ですわ」
その言葉は、告白に近い。
だがまだ、決定ではない。
風が静かに吹く。
第七島は何も語らない。
だが二人の距離は、確実に変わった。
最大の自然試練。
それは国を揺らすものではなく。
心を揺らす嵐だった。
そして物語は、最後の選択へと近づいていく。




