第28話 ヒロインの選択
王城の回廊は、朝の光に満ちていた。
白い石床に差し込む陽光は柔らかく、まるで何事もない日常のように穏やかだ。
だがその中央を歩く少女の胸は、静かに揺れていた。
レティシアは、小さな革鞄を一つだけ抱えている。
豪奢な衣装も、宝石もない。
旅装に近い、簡素なドレス。
彼女は王妃教育の間の前で立ち止まった。
扉の向こうでは、教師たちが待っているはずだった。
未来の王妃としての礼法、政治、外交。
かつては胸を躍らせていた場所。
――物語のヒロインとして。
「……失礼いたします」
中へ入る。
数人の貴族女性と老練な講師が視線を向けた。
「レティシア様。本日は早いですね」
「ええ。ご報告がございます」
深呼吸。
「私は、宮廷を離れます」
静寂が落ちる。
「……何を仰っているのです?」
「王妃教育を辞退いたします」
ざわめきが広がる。
「理由は?」
鋭い問い。
レティシアは迷わなかった。
「私がここにいる理由が、なくなったからです」
講師の眉が寄る。
「王太子殿下との未来は?」
「殿下は、殿下ご自身で選ばれます」
穏やかに微笑む。
「私は、その選択肢である必要はありません」
回廊の窓から風が吹き込む。
彼女は続ける。
「私は“選ばれる存在”としてここにいました」
「善良で、可憐で、努力家で」
小さく笑う。
「けれど最近、分かったのです」
「私はただ、旅がしたいだけだと」
沈黙。
「島を巡ったとき」
灯台、修道島、砂浜。
火山島の赤い空。
「誰かの恋の相手でも、王妃候補でもなく」
「ただのレティシアでいられました」
その時間が、何より自由だった。
「それは一時の気の迷いです」
講師が諭すように言う。
「王都はあなたを必要としている」
「いいえ」
レティシアは首を横に振る。
「王都は“ヒロイン”を必要としているのです」
真っ直ぐに。
「でも私は、人間です」
言い切った。
場の空気が変わる。
講師たちは言葉を失う。
「後悔は?」
「するかもしれません」
正直に答える。
「でも、誰かの物語に縛られる後悔より」
「自分で選んだ道の後悔のほうが、きっと軽いです」
静かな決意。
やがて講師の一人がため息をついた。
「……強くなりましたね」
「ええ」
少しだけ誇らしげに。
「悪役令嬢のおかげです」
◇
王城の外門。
リディエルとライベルトが立っていた。
「本当に行くのか?」
ライベルトが問う。
「はい」
レティシアは頷く。
「しばらくは各地を巡ります。孤児院や修道院を見て回りたいのです」
「ヒロインらしいな」
「もうヒロインではありません」
笑う。
「ただの旅人です」
リディエルが近づく。
「荷物はそれだけ?」
「はい」
「甘いですわ。旅は想像以上に体力を使います」
「指導をお願いします、先輩」
軽やかなやりとり。
だがその奥に、確かな絆がある。
「レティシア」
リディエルは少しだけ真面目な声で言う。
「あなたは逃げるのではありませんのよ」
「はい」
「選ぶのです」
「はい」
二人は微笑み合う。
かつて対立するはずだった関係。
だが今は、背を押し合う存在。
「殿下」
レティシアがライベルトを見る。
「私は、殿下をお慕いしておりました」
突然の告白に、彼が目を見開く。
「ですがそれは、“物語上の正解”だったのかもしれません」
穏やかに続ける。
「今は、違います」
彼女は一歩下がり、頭を下げた。
「どうか、ご自身の物語を」
ライベルトはゆっくり頷く。
「お前もな」
「はい」
門が開く。
朝の光が差し込む。
レティシアは振り返らない。
歩き出す。
王都に用意された舞台を離れ、自分の道へ。
ヒロインの選択。
それは、誰かを選ぶことではなく。
自分を選ぶことだった。
王城の塔の上で鐘が鳴る。
新しい物語の、静かな始まりの音のように。




