第19話 拒絶
その夜、港町の空気は重かった。
王都からの使者が去ったあとも、どこか見えない糸が張り巡らされたような圧迫感が残っている。
宿の一室。
ランプの灯りが静かに揺れる中、三人は向かい合っていた。
「……すみません」
最初に口を開いたのはレティシアだった。
「私のせいで」
「違いますわ」
リディエルは即座に否定する。
「誰のせいでもありません。強いて言うなら、“物語”のせいですわね」
軽い口調だが、その瞳は冴えている。
ライベルトは腕を組んだ。
「王都は本気だ。次は言葉だけでは済まないかもしれない」
「ええ」
「それでも、旅を続けるのか?」
問いは静かだが、重い。
リディエルは少しだけ考える素振りを見せ、やがて立ち上がった。
窓辺へ歩み寄る。
夜の港。
揺れる灯。
遠くで波が砕ける音。
「……殿下は、どうして追いかけてきたのですか?」
不意の問い。
「それは――」
言葉に詰まる。
後悔。
疑問。
確かめたい気持ち。
そして今は、もっと別の感情もある。
「自分で決めたかった」
絞り出すように答える。
「誰かの作った筋書きではなく」
リディエルは微笑んだ。
「でしたら、わたくしも同じですわ」
振り返る。
その瞳に迷いはない。
「わたくしはもう、悪役はしませんわ」
静かだが、はっきりとした宣言。
空気が震える。
レティシアが息を呑む。
「悪役令嬢として断罪されるのは、計画通りでした」
あっさり言う。
「辺境送りも望み通り。島巡りも順調」
「順調すぎるだろう」
思わずライベルトが突っ込む。
リディエルはくすりと笑う。
「ですが、王都が望む“悪役”に戻るつもりはございません」
ゆっくりと言葉を重ねる。
「誰かに嫉妬し、誰かを貶め、物語を盛り上げるための存在になる気はありませんの」
レティシアの目が揺れる。
「でも……私が王妃になる物語は」
「ご自由になさってください」
あっさり。
「その物語に、わたくしを配置しないでいただければ結構ですわ」
沈黙。
ランプの炎が小さく揺れる。
「王都は許さないぞ」
ライベルトが言う。
「悪役がいないと困る連中がいる」
「でしたら困らせて差し上げますわ」
即答。
迷いの欠片もない。
「悪役がいないと成り立たない幸福など、壊れてしまえばよろしいのです」
強い。
かつての高慢さとは違う。
誰かを見下す強さではなく、自分の足で立つ強さ。
「わたくしは、島を巡り、灯台を見て、砂浜で遊び、嵐を越えます」
指折り数えるように。
「それがわたくしの望みですもの」
ライベルトは思わず笑った。
「本当に、それだけか?」
「ええ」
即答。
だが一瞬、視線が揺れる。
レティシアが小さく笑う。
「リディエル様は、自由になりたいのですね」
その言葉に、リディエルは少しだけ目を細めた。
「自由、ですか」
窓の外を見つめる。
「……ええ。たぶん」
静かな肯定。
悪役という枠。
公爵令嬢という立場。
物語の配役。
全部、もういらない。
「殿下」
まっすぐに見つめる。
「もし王都が力づくで連れ戻そうとするなら、そのときは――」
「そのときは?」
「全力で逃げますわ」
一拍。
そして三人同時に吹き出した。
「逃げるのか」
「戦いませんの?」
「勝てませんもの」
あっけらかんと言う。
「ですが、逃げるのもまた選択ですわ」
肩をすくめる。
「悪役は、最後には必ず破滅しますでしょう?」
「ああ」
「でしたら、破滅ルートには乗りません」
きっぱり。
「わたくしはもう、悪役はしませんわ」
もう一度、はっきりと言い切る。
それは拒絶。
王都への。
物語への。
運命への。
波の音が強まる。
夜風がカーテンを揺らす。
新しい航路は、まだ見えない。
だが彼女は迷わない。
地図を広げる手は震えていない。
悪役令嬢リディエルは、ここで役を降りた。
そして一人の少女として、再び歩き出すのだった。




