第15話 あなたは何を望んでいるのですか?
嵐の去った第四島は、嘘のように静かだった。
濡れた岩肌が陽光を反射し、海はまだ荒い呼吸を続けている。
船の補修を終えた夕刻、二人は高台に立っていた。
他の者たちは下で作業をしている。
風は強いが、もう脅威ではない。
「……聞きたいことがある」
ライベルトが言う。
王子としてではなく、一人の男として。
リディエルは振り返る。
「なんでしょう」
「あなたは何を望んでいるのですか?」
単刀直入。
逃げ道のない問い。
王都では聞けなかったこと。
断罪の場では許されなかった問い。
彼女は少しだけ目を細め、それからあっさりと答えた。
「島を制覇することですわ」
間。
風が吹き抜ける。
「……は?」
「ですから、島を」
「聞こえている」
思考が追いつかない。
「復讐でもなく?」
「ええ」
「王都への帰還でもなく?」
「興味がございません」
「名誉回復でもないと?」
「名誉は場所が変われば意味も変わりますわ」
あまりにも軽やか。
まるで散歩の予定でも語るように。
「島を、制覇……?」
「ええ」
指を折る。
「灯台の島は済みました」
「……済んだ?」
「修道島も。海賊の島も。子供たちの島も」
「制覇の定義は何だ」
「その島で、わたくしなりの役割を持つことですわ」
真顔。
「灯台島では老人と語り、修道島では沈黙を学び、海賊島では交易を結びました」
さらりと恐ろしいことを言う。
「子供たちの島では、走りましたわ」
少し誇らしげ。
ライベルトは頭を抱えたくなる。
「それが、望みか?」
「はい」
即答。
「大きな野望も、王座も、恋も、復讐も?」
「今のところは」
今のところ。
つまり、状況次第で増えるのか。
「殿下は何をお望みで?」
逆に問われる。
言葉に詰まる。
王国の安定。
王家の威信。
民の幸福。
それは“正解”だ。
だが今、胸を占めているのはそれではない。
「私は……」
彼女の横顔を見る。
潮風に揺れる金髪。
嵐を越えた後の穏やかな表情。
「あなたの真意を知りたかった」
「もうお分かりでしょう?」
にこり。
「わたくし、意外と単純ですの」
単純。
いや、自由だ。
王都では全員が物語の役割に縛られていた。
悪役令嬢。
ヒロイン。
王子。
だが彼女は、その枠から外れている。
「島を制覇して、その先は」
「その時考えますわ」
迷いがない。
「未来を決めすぎるのは退屈ですもの」
価値観が、崩れる。
王子は常に未来を設計する。
戦略を練り、均衡を保つ。
だが彼女は、今を攻略する。
「……あなたは」
言葉を探す。
「変わった」
「そうでしょうか」
「王都にいた頃より」
彼女は少し考え、笑った。
「鎧を脱ぎましたの」
「鎧?」
「悪役令嬢という鎧」
軽く胸元を叩く。
「意外と重かったのですわよ」
冗談めかす。
だがその目は真剣だ。
「殿下も脱げばよろしいのに」
「何をだ」
「“王子らしさ”という鎧」
息が詰まる。
そんな発想はなかった。
王子であることは、存在そのものだ。
脱ぐなど考えたこともない。
「無理だ」
「そうでしょうね」
あっさり同意。
「ですが、少し緩めるくらいはできましてよ」
視線を海へ戻す。
「嵐のとき、殿下は王子ではありませんでしたわ」
「……」
「ただ、船を支える人でした」
その記憶が蘇る。
濡れた縄。
重い帆柱。
命令ではなく、協力。
確かにあの瞬間、肩書きは意味を持たなかった。
「島を制覇したら」
ライベルトが言う。
「次は何をする」
「さあ」
楽しげに首を傾げる。
「その時、また新しい島が見つかるかもしれませんわ」
笑う。
自由な笑み。
王子の価値観が、音を立てて揺らぐ。
権力でも、復讐でもなく。
ただ、世界を広げること。
それが彼女の望み。
「……理解できない」
正直な感想。
「理解なさらなくて結構ですわ」
即答。
「ただ、ご一緒なさいます?」
さらりと、とんでもないことを言う。
「島巡り」
心臓が跳ねる。
王都を離れ、未知を巡る。
王子としては無責任。
だが一人の人間としては――
魅力的すぎる提案。
風が吹く。
遠くに新たな島影が見える。
リディエルはそれを指さした。
「次の目標ですわ」
目が輝いている。
断罪の壇上では見なかった光。
ライベルトは深く息を吸う。
価値観が崩れる音がする。
だが不思議と、恐ろしくない。
「……考えておく」
それが精一杯の返答。
彼女は満足げに頷く。
「ゆっくりどうぞ」
夕日が海を染める。
王子の世界は広がり始めている。
悪役令嬢の望みは、王座ではない。
島の制覇。
単純で、壮大で、自由な夢。
そのあまりの潔さに、王子は初めて自分の望みを見失いかけていた。




