第13話 王子、船に乗る
港に停泊する中型帆船。
白い帆が風をはらみ、きしりと鳴る。
「本当に乗られるのですか、殿下」
側近の声は真剣だった。
視線の先――甲板にはリディエルが立っている。
「次の島へ向かいますわ。交易の確認ですの」
当然のように言う。
「王都の視察も、海路を知らねば片手落ちでは?」
挑発ではない。
純粋な提案。
ライベルトは一瞬だけ空を見た。
青い。
穏やかだ。
(問題ない……はずだ)
「乗る」
短く告げる。
こうして王子は、生まれて初めて本格的な航海へ踏み出した。
――一刻後。
「……っ」
甲板の手すりを握りしめ、ライベルトは青ざめていた。
揺れる。
とにかく揺れる。
上下に、左右に、容赦なく。
「殿下、大丈夫ですか」
「……問題ない」
声が震える。
視界が回る。
胃が抗議している。
「おや」
後ろから、涼しい声。
「顔色が海と同じですわね」
振り向くと、リディエルが平然と立っている。
帽子を押さえ、揺れに合わせて自然に体重移動。
「あなたは平気なのか」
「ええ」
「なぜだ」
「慣れですわ」
あっさり。
「最初は大変でしたけれど」
さらりと言うが、その“最初”を彼は知らない。
彼女はすでに何度も海を越えている。
王都で舞踏会に出ていた時間を、彼女は波と戦っていたのか。
「殿下、座ってくださいませ」
彼女は木箱を示す。
「遠くを見ると楽になりますわ」
「本当か」
「保証はいたしかねますけれど」
意地の悪い微笑み。
だがどこか柔らかい。
言われた通り、遠くの水平線を見る。
揺れは止まらない。
だが、わずかに呼吸が整う。
「……くっ」
「無理はなさらず」
差し出されたのは水袋。
自然な動作。
「情けない姿を見せているな」
「王子も人間ですもの」
「私は――」
王子だ、と言いかけて止まる。
ここでは、それは肩書きに過ぎない。
船乗りたちは忙しく帆を調整している。
誰も彼に跪かない。
ただの“乗客”。
「海は平等ですわ」
リディエルが言う。
「貴族も平民も、酔うときは酔います」
「君は酔わないのか」
「今は」
含みのある言い方。
「克服したのか」
「いいえ」
首を振る。
「酔っても、動けるようになっただけですわ」
強い。
単純な身体の話ではない。
追放。
孤立。
未知の土地。
それでも動いた。
「殿下は、なぜ乗られたのですか」
風の中の問い。
「確かめるためだ」
「何を」
「あなたを」
即答。
リディエルは目を細める。
「確認できましたか」
揺れる甲板。
遠ざかる港。
広がる海。
「まだだ」
正直に言う。
「だが、少なくとも」
言葉を選ぶ。
「王都で見ていたあなたとは違う」
「それは光栄ですわ」
くすりと笑う。
波が大きく跳ねる。
「……っ」
「まだまだですわね」
「笑うな」
「笑っておりません」
明らかに楽しんでいる。
だがそこに悪意はない。
ただ、余裕。
やがて小さな島影が見えてくる。
「次の島ですわ」
彼女の声は弾んでいる。
新しい場所。
新しい出会い。
王都では感じなかった高揚。
ライベルトは息を整え、立ち上がる。
膝が少し震える。
「殿下?」
「降りる」
決意の声。
揺れに耐えながら前を向く。
リディエルが隣に立つ。
自然な距離。
かつては壇上で対峙した二人が、今は同じ船の上。
「海は弱点のようですわね」
「否定はしない」
「ですが」
彼女は前を見たまま言う。
「それでも乗ると決めたのでしょう?」
「ああ」
「それは立派ですわ」
その一言が、妙に重い。
王都では聞けなかった言葉。
帆船は島へ近づく。
王子は青ざめながらも立ち続ける。
リディエルは余裕の微笑み。
立場は逆転したようでいて、対等に近づいている。
海風が二人の間を抜ける。
物語はまだ揺れている。
だが確実に、同じ方向へ進み始めていた。




