第10話 島の子供たち
第四の島は、小さな漁村だった。
大きな港も、立派な建物もない。
網と、小舟と、潮の匂い。
「何もありませんのね」
「観光向きじゃねえな」
船乗りが笑う。
「構いませんわ。何もない島は、嫌いではなくてよ」
桟橋を歩いていると――
「ねえ、あれ見て!」
「すげえ服!」
子供たちが駆け寄ってきた。
ぼろぼろの半ズボン。
日焼けした頬。
遠慮のない視線。
王都の子供とは違う。
「お姉ちゃん、どこから来たの?」
「お姉ちゃん……?」
その呼び方に、リディエルは一瞬固まる。
令嬢。
お嬢様。
悪役令嬢。
そう呼ばれることはあっても。
「王都からですわ」
「おうと? 遠いの?」
「ええ、とても」
「すげえ!」
きらきらとした目。
警戒も、計算もない。
「そのドレス、重くないの?」
「……重いですわね」
「じゃあなんで着てるの?」
ぐさり。
純粋な疑問。
「礼儀ですもの」
「れいぎってなに?」
答えに詰まる。
王都では常識。
ここでは不要。
「……そういうもの、としか」
「ふーん!」
納得していない顔。
だが気にしていない。
「ねえねえ、船乗れる?」
「少しなら」
「競争しよ!」
「きょうそう?」
気づけば手を引かれていた。
「ちょ、ちょっと――」
砂浜へ。
靴が砂に沈む。
「走れー!」
子供たちが駆け出す。
「待ちなさい!」
言いながら、走る。
ドレスの裾を持ち上げて。
風が髪を乱す。
砂が跳ねる。
息が切れる。
「はあ、はあ……」
「お姉ちゃん遅ーい!」
「当然ですわ……こんな服で……!」
笑い声が弾ける。
自分の声も混ざっていることに、遅れて気づく。
(わたくし、今……)
笑っている。
優雅でもなく。
皮肉でもなく。
自然に。
「ねえ、また明日も遊ぼ!」
「明日もいんの?」
「……少しだけなら」
「やったー!」
その日の午後、リディエルは網の修繕を手伝い、魚の仕分けを教わり、貝殻の山に座って海を眺めた。
難しい交渉も。
駆け引きもない。
あるのは、単純な好奇心と笑顔。
夕方。
子供の一人が言った。
「お姉ちゃん、こわくないね」
「……何がですの?」
「最初、なんかキラキラしてて、怒りそうだった」
「怒りそう」
「でも、全然怒んないじゃん」
思わず苦笑する。
王都では。
冷たい。
高慢。
近寄りがたい。
そう言われていた。
「怒る理由がありませんもの」
「ふーん」
子供はあっさり頷く。
「お姉ちゃん、やさしいね」
その一言。
胸の奥が、静かに揺れる。
優しい。
言われたことのない言葉。
少なくとも、悪役令嬢としては。
「……勘違いですわ」
「ちがうよー」
小さな手が、彼女の指を握る。
温かい。
計算のない体温。
船へ戻るとき、子供たちは手を振った。
「また来てね!」
「約束だよ!」
リディエルは振り返る。
潮風の中で、小さな影が跳ねている。
「ええ。また」
自然に、そう言えた。
船に乗り込むと、船乗りがにやにやしている。
「随分なつかれてたな」
「子供ですもの」
「王都じゃ見ねえ顔だったぜ」
リディエルは黙る。
王都では、常に構えていた。
弱みを見せれば、飲み込まれる。
笑えば、揶揄される。
だから鎧を着ていた。
悪役令嬢という鎧を。
だがここでは。
鎧は、必要なかった。
誰も彼女を役で見ない。
ただの“お姉ちゃん”。
波が船を揺らす。
胸の奥が、少し軽い。
(悪役令嬢、失格かもしれませんわね)
皮肉ではなく。
少しだけ、誇らしい響き。
島の子供たちは、彼女の肩書きを知らない。
それでも慕う。
それはつまり。
肩書きがなくても、彼女はここに立てるということ。
リディエルは海を見つめる。
広く、自由な水平線。
悪役令嬢の属性は、潮風に削られ始めていた。
残るのは――
一人の少女の、素顔。




