那須宮深緑の事情(那須宮)
『深緑ちゃん』
──記憶の中に残るお姉さんは、いつも笑顔だった。
貼り付けた笑みを浮かべて、笑い続ける。
それが作り笑顔なのか、心からの笑顔なのかすら、付き合いの浅い深緑にはわからない。
(付き合いが浅いわけではなくて……)
彼女と過ごした時間は、とても長い時間だったように思う。
物心ついた頃には、彼女は深緑の姉として一緒に暮らしていた。
幼子を一人暮らしさせるより、5歳違いの姉と呼ばせた他人へ面倒を見させてやった方がいいだろうと考えたのだろう。
彼女と手を繋いで外に出れば、深緑は彼女と顔の似ていない姉妹として近隣住民からそこそこ好感を得た。
深緑はあまり容姿がよくないと自分で自覚していたが、彼女は美しかったからだ。
誰もが見惚れるような美貌とオーラ。
人当たりがよく、誰にでも分け隔てなく接する。
神様に愛された、光の中で生きるべき存在。
それが彼女の作り上げた、幻覚であることは……深緑と、その家族だけが知っている。
『あのクソアマ……』
兄は彼女を、口汚い呼び方で呼んだ。
暴力団組長の娘として生まれた深緑は、父親の教育方針によって暴力団関係者とはほとんど関わりを持たずに生きた。
兄は跡取りとして裏社会の人間として生きているせいで、手を汚す必要のない環境で育った深緑に人殺しをさせたくて仕方なかったように思う。
兄は深緑が一人の時にだけ決まって深緑へ会いに来ては、彼女の悪口を引き込んで去っていく。
『いいかぁ、よく聞きやがれ。あのクソアマは、天使のふりした悪魔ってヤツだ。信頼すんじゃねぇ。うちの組に関係なく育てられたとしても、テメェは俺の妹で、オジキの娘だ』
兄は深緑に凄む。
深緑が心を許したならば、深緑のせいでたくさんの人が死ぬのだと。
何度も何度も兄から言い聞かせられた深緑は、段々怖くなった。
天使のフリをした悪魔である彼女に隠された秘密に触れたら。
天使のように優しく、血縁関係などないのに姉妹として過ごしてきた彼女が悪魔と呼ばれる理由に気づけば、深緑はただでは済まない。
幼い深緑は、兄から彼女の悪口を吹き込まれるまで気づいていなかった。
いくら年齢が近いからとは言え、組長の娘と同居し、面倒を見る女がまともなはずないのだと──。
『わたし、好きな人ができたの』
好きな人ができた、と。
報告してきた彼女は、とても幸せそうに笑った。
作り笑顔ではない心からの笑顔をはじめて見た深緑は、純粋に祝福の言葉を送る。
『おめでとう、ございます』
『ありがとう、深緑ちゃん。それで、申し訳ないけど──これからは、一歩も外に出ないでくれないかな』
『……え……?』
何を言われているか、よく分からなかった。
彼女は深緑に、鳥かごの中でじっとしていろと指示をしてきたのだ。
深緑は鳥ではなくm人間である。
マンションの一室を鳥かごに見立て、小学校に通わなくとも義務教育なら卒業証書は手にできると笑顔を浮かべる彼女が、深緑は恐ろしいものに見えて仕方がない。
『好きな人に、私が暴力団組長の娘と同居して面倒を見ているなど、知られたくないの。あの人の前では、私は普通の女の子で居たい。あの人の前では、私は穢れを知らない天使なの。たとえ、中身はとっくに堕天していて、地獄に落ちることが確定している悪魔だとしても……』
兄は、深緑に嘘八百を並べて。彼女に不信感を抱かせようとしていたわけではないのだと。
このときになってようやく気づいた深緑に、できることなど何もない。
深緑は組長の娘だが、それだけだ。
名無組から引き離されて、後ろ暗いことには一切関わることなく育てられていたし、彼女をどうにかする権限すらない。
深緑には、身を守る為の武器すら用意されてはいなかった。
『あの人に私の秘密をバラしたら……。どうなるか、わかるよね』
深緑へ紡がれた言葉は、疑問形ではない。
彼女に好きな人ができるまで、深緑にとって彼女は優しいお姉さんだった。
彼女に守りたいものができたから、彼女はその人に嫌われないよう冷たく接するようになっただけ。
深緑が嫌われたわけではない。
(お姉さんの言う通りにしていれば、大丈夫……)
深緑は藁にも縋る思いで、彼女の秘密を守るため犠牲になった。
義務教育は途中から不登校で乗り切り、まともに勉強をしてこなかったのだから、当然いい高校には入れない。
それでも生きるためには手に職をつける必要があったから、深緑は奨学金を借りて看護の専門学校に入学した。
(金貸しの娘が、行政からお金を借りて高校に入学するなんて……)
どこから嗅ぎつけたのか。
暴力団組員の娘であることがバレて酷いいじめを受けても、深緑はずっと耐え続けた。
深緑にはたくさんの秘密がある。
暴力団組長の娘であること、兄が犯罪を犯していて、血の繋がりがない姉と呼んでいた人物もまた……何らかの悪事に手を染めているのに、国民的アイドルとして一躍有名となり、愛する人と添い遂げようとしていること。
そして。
看護学校を卒業した深緑が働き始めた病院で起きているある事件に、家族が関与していることを──深緑は、彼女の口から語られはじめて知ることになった。
『私、アイドルを卒業して、愛する人と添い遂げるの。深緑ちゃん、私との約束。覚えているよね』
深緑が彼女とひとつ屋根の下で暮らしていたことは、誰にも口外しない。
何度も彼女と約束した深緑は、家族が関与していたとされる事件が露呈しても──彼女との関係だけは、ずっと胸のうちに秘めて隠し通してきた。
彼女と道が交わるようなことはないだろうと、気を抜いていた深緑が悪いのだろうか。
「あ……。那須宮、さん。こんにちは……」
「さ、紗雪ちゃん……っ!た、体調はど……っ!?」
上司である、白雪氷室の結婚式で。
まさか、愛する人との間に生まれた子どもを連れて、姿を見せた彼女と再会するなど──夢にも思わなかった。
天門総合病院臓器売買事件の犯人である、院長の娘──現在は婚姻して折笠紗雪として暮らす女性に挨拶をした深緑は、彼女を見てガタガタと震えた。
(どうしよう)
深緑は上司である新郎の氷室から、様子がおかしいと指摘された時。どう言い訳すればいいのかすらもわからないほど、困惑してた。
助けて。
氷室はその一言を、無下にするようなタイプではない。
たった一言、その言葉を紡げばいいのに。
深緑は、ただただ彼女に恐れを抱くことしかできなかった。
(このまま、黙って姿を消せば……)
どうにか披露宴を乗り切った深緑は、これ以上紗雪に心配を掛けさせるわけにはいかないと化粧室に引きこもり、パーティドレスが濡れるのも厭わずに頭から水を被った。
彼女と顔を合わせたら、何を言われるかわかったのではない。
氷室は敏いから、深緑が黙って姿を消せば職場で理由を聞いてくるだろう。
(言えるわけがない)
皆さんが国民的アイドル、絶対的センターと持て囃していた彼女には裏の顔があり──目的の為ならば手段を選ばぬ、悪魔のような女であることを。
白雪氷室と婚姻していた愛知桔梗は、かつて悪魔と呼ばれていたらしい。
本物の悪魔を見たことがある深緑にとって、桔梗はまだ可愛らしい方だ。
小悪魔と称するべきで、桔梗は彼女の足元にも及ばない。
(桔梗ちゃんは、嘘をつかない。白雪先生を惑わす嘘はついても、息するように嘘をついて、穢れきった闇を覆い隠すような眩い光を放つようなことは、なかった……)
彼女はすごい。
深緑さえ口を噤み続ければ、彼女は誰も彼もに愛されて生涯を終えるのだろう。
深緑は、誰かに愛されたかったけれど、誰にも愛してもらえなかった。
羨ましいと思うことはあるけれど、深緑が彼女のように幸せを得ることは、おそらくない。
現実世界に、白馬の王子様などいないからだ。
深緑はお姫様ではなく、村人Aだった。
村人Aはボロ雑巾のように使い潰されて、捨てられるのがお似合いなのだから。
(……帰ろう)
彼女と顔を合わせようものなら、身体が緊張して口走ってはいけないことまで口走ってしまいそうだ。
「深緑ちゃん」
深緑が化粧室から出て、中庭に咲き乱れる美しい薔薇に目を奪われ、心が洗われるような感覚に陥った時──つかの間の幸せすらも奪うように。
それは、音を立てずに深緑の元へとやってきた。
「久しぶり、深緑ちゃん。10年ぶり……くらいかな。私との約束、守ってくれているみたいで嬉しいな」
深緑は彼女の名を、口にするわけにはいかなかった。
彼女と約束したからだ。
姉妹のように暮らしていたことは、誰にも話してはいけないと。
誰が物陰に隠れて話を聞いているかわからない状況で、彼女の名を呼ぶほど深緑は馬鹿ではなかった。
「無視なんて酷い。私と深緑ちゃんの仲でしょう?」
「どうして……」
「釘を差しておこうと思って」
美しい花々に背を向けて、彼女の姿を目にしたまま会話をする勇気が深緑にはなかった。
「天門総合病院、臓器売買事件」
「……っ!」
「これもなにかの縁、なのかな……。私と深緑ちゃん、桔梗ちゃんに繋がれた一本の赤い糸は、天門の娘さんに流れて、そのまま警察官の彼に結ばれてしまった」
深緑は彼女が天門総合病院臓器売買事件の名を出してくるとは思わず、彼女の方を振り返った。
その事件に、彼女は関わり合いなどないはずだ。
深緑が天門総合病院で働くようになった時には、彼女はアイドルを卒業すると決めて、愛する人の為に生きると決めたはずなのだから。
「赤い糸の関係が白日の元に晒されたら、私も困るの」
「で、ですが……っ。あなたは……!」
「私がどのようにあの件へ関わっているかについて、深緑ちゃんが知る必要はないかな。私には守るべき大切な人がいる。私の真実を、大切な人に知られるわけにはいけないの」
大切で愛する人だからこそ、秘密を打ち明けるべきではないのだろうか。
大切な人と称しながら秘密を打ち明けることなく、自分のいい面だけを見せようと必死になっているなら。
彼女の抱く愛が真実であるなど、誰が信じるのだろう。
「ほ、本当に……愛しているのなら……!」
「愛しているのなら、なに」
「い、いい所も、悪い所もっ。全て受け入れてくださるはずです……!」
「ちょっと嘘つきで、イタズラが好き。それが彼から見た、私の悪い所。犯罪に関わっているなんて知られたら、即離婚だよ。私が彼の立場だったら、間違いなく縁を切る」
彼女は笑顔を浮かべたまま、吐き捨てるように言葉を紡いだ。
誰かに聞かれでもしたら、悪魔が乗り移ったと大騒ぎしてもおかしくはないだろう。
「深緑ちゃんがあの子の側にいてくれてよかった!これからも、私達の秘密を守るために行動してね」
「はい……」
深緑が彼女に逆らったら、どうなるかなど火を見るよりも明らかだ。
本来であれば深緑がそこまで怯える必要などないのだが、組長の娘としての権力を何一つ持ち合わせていない深緑が、彼女に抗う術などない。
「深緑ちゃん。あそこ、わかる?」
「……っ」
彼女は去り際、うつむく深緑にある場所を指差した。
物陰から、白いレースが飛び出ている。
それがなんであるかをはっきりと認識した深緑の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「私が直接お話してあげてもいいけど……」
「やっ、やめてください!」
思った以上に、大きな拒絶の声が出てしまった。
ハッと口を塞いでも、もう遅い。
物陰に隠れていた男女が深緑の拒絶を聞いて、庇うように飛び出してきたのはそれからすぐのことだった。
「那須宮!」
深緑は慌てて桔梗を抱き上げたまま庇おうとした氷室の腕を掴み、彼女に危害を加えぬように止めようとする。
(彼女になにかあったら、白雪先生もただでは済まない……!)
ぶるぶると震えた深緑は、必死に彼女に向かって目で訴えかけた。
(白雪先生は関係ないんです!だから……っ)
深緑の思いが通じたのだろうか。
彼女は氷室と目を合わせると、満面の笑みで二人の門出を祝った。




