恋のキューピッドと裏工作
『芸能人をやめろ』
その一言を躊躇ったせいで、桔梗を悲しませてしまった。
「俺は桔梗の旦那、失格だな」
車から降りて桔梗を抱き上げた氷室は、消え入りそうな声でぽつりと呟く。
最初から独り言のようなもので、桔梗へ聞かせるつもりはまったくなかったのだが──氷室の一投足を聞き漏らすことなどありえないと、桔梗は当然のように氷室へ話しかけてきた。
「私の旦那様は、氷室先生以外考えられない。失格だと思うなら……」
「思うなら、なんだ」
「私のお願い、たくさん聞いてくれる?」
「俺の妻は、強請り上手だから困るな……」
瞳を潤ませた桔梗は、お得意の涙目で氷室を見上げる。
口では困ると言葉にしながらも、彼女の潤んだ瞳に弱い氷室は、彼女が可愛らしくて仕方なかった。
(頑なに桔梗が嫌いだと思い込み、敵視していた過去の自分をぶん殴りたい)
幼子に恋愛感情を抱くのは、倫理的にアウトだと理解していても。
もっと早くに自分の気持ちを認めていれば、添い遂げるまでこれほど長い時間を掛けなくて良かったのではないかと考える時がある。
「いくらでも、好きなだけ聞いてやる。遠慮せずに命じてくれ」
「本当?なら、今日の夜は、私を抱きしめて一緒のベッドで寝て。結婚式の準備もしなくちゃ。ドレス選びに招待客の選定。それから、未来のことも考えるの」
「今日、戻ってきたばかりだろ。時間はたっぷりある。今日くらいはゆっくりしてもバチは当たらない」
「むぅ。氷室先生はお仕事があるもの。24時間一緒に過ごせる時間は、1週間のうち2日だけ……」
桔梗はゆっくりなどしていられないと、氷室に抱き上げられたまま胸元に頭を寄せた。
桔梗が焦る理由を知った氷室は、玄関先で靴を脱いで寝室へ桔梗とともに向かうと、彼女をベッドの上に下ろして、貴重品の入ったショルダーバッグを手渡す。
いくら夫婦といえども、勝手に鞄の中を漁るのは気が引ける。
突然ベッドに降ろされショルダーバッグを手渡された桔梗は、氷室と離れるのを嫌がり彼の腕に縋り付いた。
「氷室先生、約束したでしょ。ずっと一緒にいるって……。もう、反故にするの?」
「キャリーケースを、車から下ろしに行くだけだ」
「私も行く」
「荷物を取りに行くだけだぞ」
「氷室先生……今日はお願い、聞いてくれる日でしょ……」
お願いを盾にされると、氷室は弱いのだ。
マンションの部屋から地下駐車場までは、そこそこの往復距離が存在する。
氷室にはどうってことのない距離でも、桔梗にとっては負担となるだろうと配慮していたのだが、返って気を使わせてしまったかもしれない。
(桔梗が風呂に入っている間にでも、取りに行けばいいか……)
氷室は車からキャリーケースを取りに行くのは、諦めたようだ。
「……芸能人をやめること、後悔しないか」
「しないよ」
「歌うことが好きだったから、アイドルになったんじゃないのか」
「歌うことが好きだったわけではなくて……」
桔梗は神奈川焔華に憧れ、歌うことが好きだからアイドルになったと氷室に初めて出会った際告げていたはずなのだが……。
どうやらそれは表向きの理由であり、本来の理由ではなかったようだ。
「きーちゃんが得意なもの、氷室先生も知っているでしょう」
「スケートボードだろ」
「大正解。私も、きーちゃんみたいに得意なものが欲しくて……」
桔梗は両親から悪魔と蔑まれ迫害されながら、幼少期の殆どを入院する必要もない病室で孤独に生きてきた。
両親から天使と持て囃されていた弟の吉更は、望めばなんでも買い与えられる状況であったらしい。
早い段階でスケートボードを習い始め、彼は瞬く間に天才少年として名を馳せた。
「両親にとって私は、存在してはいけない存在。悪魔である私にお金をかけて、習い事などさせてくれるはずもない。一人で学べて実行できる趣味は、あまり多くないでしょう。一通り試して、才能がありそうだったのが歌だっただけ」
桔梗と吉更は双子だ。
吉更がスケートボード界の天才少年と持て囃されるのなら、当然桔梗のうちにも天才少女と歌われる才能が眠っている。
そうして表面化した才能が歌であっただけで、人前で歌えなくなることに未練があるわけではないらしい。
「私の歌をたくさんの人に聞いてほしい、演技を見てもらいたいとか、どうでもいいの。私にはお金よりも、大切なものがある」
桔梗は大切なものが氷室であることをわざわざ口にしなかったが、目線で訴えかけている。
氷室はよく理解していると桔梗に伝わるように、彼女の隣へ座り腰に手を回して抱き寄せた。
「氷室先生に命を助けて貰ったあの日に、アイドルを卒業していたら良かったのかな」
もしも桔梗が天門総合病院の事件が露呈した際にアイドルを卒業していたら。
桔梗が探偵を使ってでも氷室を探し出そうとしなければ、再び巡り合うことなどなかっただろう。
それが桔梗にとっていいことだったのか、悪いことだったのかは、これから二人で同じ道を歩んでみなければわからない。
「俺が桔梗から目を背け続けている限り、今より悪くなることはあってもいい方向に進むことはなかった」
「私達には、運命の赤い糸が薬指に結びついているのよ。どんな選択肢をしたとしても、私達が結ばれるのは運命なの」
「そうだな……」
「信じてないでしょう」
「……信じているさ」
運命の赤い糸など、桔梗の言葉でなければ絶対に信じなかった。
それが、今ではどうだ。
彼女を好きになれば好きになるほど、非現実的な話題でも受け入れられるどころか、そうした言動をする彼女が愛おしいと思うようになってしまったのだから、どうしようもないだろう。
「残り二ヶ月分の仕事……俺が側にいなくともこなせるか?」
「頑張りたくない、けど……。本当にそれが最後なら、ちゃんとやりたい」
桔梗は難色を示していたが、予定していたスケジュールをこなせば結婚式がやってくる。
たくさんの人から祝福を受ける日は、すべてやり遂げた後に迎えたい。
桔梗は嫌だと口にしたい気持ちを飲み込み、氷室へはっきりと宣言した。
「あまり、無理するなよ」
「……大騒ぎしたら、氷室先生に迷惑かけてしまうもの。2度も同じ鉄は踏まない。私は、大人だから……」
子ども扱いしてもいいと氷室へ告げてきた舌の根も乾かぬうちに、桔梗は大人だと宣言して目を瞑る。
芯の強さは、桔梗の利点だ。
強くあろう、強く見せようとしすぎて疲れてしまい、精神的に参ってしまっていた。
(ようやくいつもの桔梗へ戻りつつある所へ、好きなだけ甘えていいと声を掛けるのは違うか……?)
氷室には対人スキルが欠如している。
仲のいい友達もいなければ、普段会話をする相手は妹の鈴瑚や那須宮くらいで、患者とは世間話程度の浅い関係を繰り返し続けるだけ。
長く深く付き合い続ける機械などほぼなかった氷室は、どこまで踏み込んでいいのかよく理解できていなかった。
(いい大人が情けねぇ……)
愛する人が表面上は強がっていても、心の中では泣いているかもしれない。
何が正解かわからない状況でも、桔梗の頑張りを黙って見逃すほど氷室は薄情ではなかった。
「病み病みモードは、もう終わりにする。楽しいこと考えたいな。氷室先生側の招待する人、決まった?」
「……あのな、桔梗」
桔梗に優しい言葉をかけてやろうと決意した氷室よりも先に、気持ちを切り替え、氷室を抉るような発言をしてきた桔梗は持ち前の明るさを取り戻したかのように問いかける。
(タイミングが最悪だ)
桔梗が前を向いて歩き出そうと一歩踏み出した所で、優しい言葉を掛けて歩みを留める必要など。
どこにもないだろう。
(また駄目になった時、思う存分甘えさせてやればいいか……)
また駄目になった時が来るなど、考えたくもない。
氷室は開いている右手で頭を抑えると、唸るように桔梗の問いかけに答えた。
「氷室先生……?」
「俺に親しい友人はいない。爺さんや親と交流のある奴らへ無差別に招待状を送れば、数合わせは容易だ。桔梗の好きなだけ、呼びたいやつを呼べばいい」
「あのね、焔華さんが桔梗は馬鹿だから、ちゃんと書いて置かないと忘れてしまうからって。招待者リストをまとめてくれたの」
「俺が見てもいいのか」
「私と氷室先生の結婚式よ。氷室先生が確認しなくてどうするの」
スマートフォンに表示された新婦側の招待客リストを確認した氷室は、備考欄に新郎席へと何人か注意書きが書かれていることに気づく。
氷室が結婚式に呼びたい人間などほとんどいない。
診療所を閉めて結婚式を行う都合上、那須宮を呼ぼうと考えているくらいだ。
氷室は新婦側ではなく新郎側に座るよう注意書きが書かれたある人物を指差し、桔梗へ確認した。
「天門夫妻は、新郎側に座るのか」
「新婦側に、週刊文冬の記者さんを呼ぶ予定なの。私とさーちゃんに長年交流があったことを、手が滑って記事にされると困るから……。氷室先生の知り合いってことにしておけば、いくらでも言い訳は利くでしょ?」
天門夫妻と氷室は面識こそあるが、結婚式に呼びたいと思うほど仲良くない。
氷室と違って桔梗は広く浅く、様々な人々から愛され、交流を持ってきた。
氷室があまり派手な結婚式を望まなかったこともあり、招待客も必要最低限の人数に絞ったらしいが、新婦席へ予定している人数を全員座らせるのは難しい。
週刊誌にすっぱ抜かれては困る交友関係の人物は、全員まとめて余裕のある氷室の方へ席を用意する作戦のようだ。
「新婦側に週刊誌記者を座らせるのは悪手だろ。元アイドルの山じゃないか。雑談すらしていられないぞ」
「うーん、でも、みんな新婦側に座らせてたよ?二次会には来ないから、そこで不満をどかーんって話す感じなの」
「二次会も予定しているのか……」
酒の席にあまりいい思い出などない氷室はうんざりしていたが、桔梗がやりたいと手を挙げるなら仕方ないだろう。
特別な日でもなければ、芸能界から引退した元アイドルとなど、顔を合わせる機会などないのだから。
「会場の目星はついているのか」
「もちろん。いつものバーでやるから、マスターさんも呼ぶことにしたの。お料理習ったり、たくさんお世話になったから……」
桔梗はよく利用するバーのマスターが、新郎側に座ると氷室へ説明した。
彼は妻子持ちであるらしく、一家揃って参列するそうだ。
新郎席は、氷室の知らないうちにどこかで見たことのあるような顔で埋まるのが確定しているらしい。
(爺さん婆さんを穴埋めで呼ぶくらいなら、桔梗と交流のある若者を呼ぶくらいがちょうどいいか……)
招待客にこだわりのない氷室は特に反対することもなく、桔梗の説明を聞いている。
「あとね。これはきーちゃんと私からのお願い。氷室先生、聞いてくれる……?」
「なんでも聞くと言ったろ」
「ありがとう!実は、この名前。氷室先生には馴染みがないでしょ」
「ないな」
桔梗が指を指し示したのは、新郎席に座るように注意書きが書かれたある人物の名前だった。
おそらく男性と思われるその名を指差した桔梗は、彼が吉更の友人であると説明した。
「氷室先生、鏡花ちゃんってわかる?」
「宇都宮鏡花か」
「そうだよ。私が例の件で落ち込んでいた時もお世話になったから、恩返しがしたくて……」
見知らぬ男を新郎席へ座らせることが、どうしたら鏡花の恩返しに繋がるのだろう。
不思議に思っていた氷室は、桔梗から話を聞いて難しい顔をした。
「鏡花ちゃんの幼馴染なんだって。学生時代はいい関係だったけど、色々あって……今は交流が途切れているみたい。両片想いの2人に、幸せのお裾分けがしたいの」
どうやら桔梗は、天門紗雪の背中を押して婚姻させただけでは飽き足らず、二進も三進もいかない先輩の背中も押して意中の相手と婚姻させようとしているらしい。
(恋のキューピッドも大変だな)
運命の赤い糸を信じる桔梗は、運命の赤い糸で結ばれているのに男女の関係になっていない彼らの姿を見ると、黙っていられないのかもしれない。
(神奈川焔華と弟の件も、ずるいと口にしながら応援していたようだしな……)
氷室が頭ごなしに桔梗を叱りつけ、止める権利などないだろう。
鏡花の恋を桔梗が応援した所で、氷室が損をするようなことはないのだから。
「桔梗は優しいな」
「もっと褒めて」
桔梗は嬉しそうに、くすくすと声を上げて笑った。
桔梗が精神のバランスを崩してからは毎日のようにテレビ電話で会話をしていたが、画面越しではやはり物足りない。
(手を伸ばせば、いつでも桔梗が触れられる場所にいる生活は……もうすぐそこだ)
桔梗に芸能界で輝き続けろと背中を押し続けてた割には、氷室も桔梗とずっと一緒に暮らしたいと考えていたのだろう。
夫婦になった二人は、何気ない日常を噛み締めながら、ゆっくりと二人のペースで歩み始めた。




