秘密を覆い隠して、女王となれ
(運転中でなければ、スマホで調べられたが……)
氷室は返事をする余裕もなく、わからないと意味を込めて首を横に振る。
氷室の横顔をじっと見つめていた桔梗は、氷室が運転に集中していて自分の表情を見ていないと知りながらも、優しく微笑んだ。
「そうだよね。私もさーちゃんから聞かなければ、一生馴染みのない言葉だった」
婚姻した男女は夫婦となり、女性は名字を変更するのが習わしだ。
昔は仕事を辞め、家庭で夫の帰りを待つことこそが貞淑な妻として評価されていたが、令和の時代は低賃金化の影響により、夫婦共働きがスタンダートとなった。
女性は仕事をしながら家事をこなし、状況によっては子育てまで一人でこなさなければならない。
愛する人と添い遂げ幸せいっぱいのはずなのに、未来のことを考えれば待ち受けるのは地獄であると考え、不安になる女性もいるのだろう。
先の見えない不安や、新しい環境に馴れず、苦しくなった女は、この人と婚姻するべきではなかったと後悔する。
(新婚直後は、男女共に浮気率が高いと聞いたことがある……)
夫婦円満の秘訣は対話にある、と独身の那須宮からつい最近耳にタコができるほどに言い聞かせられていた氷室は、やはり帰宅した後ゆっくりと話し合う必要があるのだと覚悟した。
「結婚式が終われば、もう後戻りはできなくなる。たくさんの人に祝福される喜びを感じたら、悩んでいたのが嘘みたいに消えてなくなるんだって。私、GWまでずっと情緒不安定で、氷室先生に迷惑を掛けるのかな……」
桔梗の声音に再び陰りが生まれたことを知った氷室は、桔梗を抱きしめてやりたいと強く感じる。
結婚式は三ヶ月半後。
焔華が気を利かせて結婚式の1ヶ月前から先はほぼスケジュールが白紙ではあものの、残りの2ヶ月間はびっしりとスケジュールが埋まっている。
愛知桔梗の名を地に落とすようなことがないように、予定しているスケジュールをどうにかこなして貰わなければならない。
(もう限界だと口にした桔梗の背中を無理に叩き、1週間休みを取らせた上で、これが最後だからと背中へ蹴りを入れて送り出すのか……)
氷室は自身が、鬼や悪魔にでもなった気分だ。
悪魔と両親に蔑まれ続けてきた桔梗と同じ気持ちを感じる羽目になった氷室は、彼女の痛みを実感する。
「桔梗が不調を感じているのは、俺が頑張れと無理矢理背中を叩いて送り出したからだろ」
「……私は、氷室先生と一緒がいい……」
共に暮らしたい、ではなく。
一緒がいい、に込められた言葉は、文字通り四六時中一緒に居たいと願うからこそ、彼女の口から飛び出てきた言葉なのだろう。
氷室だって、愛する妻が常に側で控えていたのならば、毎日幸せな気持ちでいっぱいになるはずだ。
嬉しいと感じることはあっても、それは無理だと突っぱねる理由などない。
「私は氷室先生が好き。世界で一番大切な人。2番目と3番目と4番目は、きーちゃんとさーちゃんと焔華さん。それ以外はどうでもいいの」
桔梗は2番目から4番目までの3人がずっと一緒に居ると約束するよりも、氷室がずっと一緒にいると宣言してくれた方が、何百倍も嬉しいのだと口にした。
焔華が聞けば、怒り狂いそうな発言だ。
氷室はこの場に焔華がいなくてよかったと安堵しながら、気持ちを吐露し始めた桔梗の言葉に耳を傾ける。
「私が結婚したことを発表したせいで、ガチ恋勢は怒っていた。私のブロマイドを燃やしたり、切り刻んだりした動画をSNSにアップロードして私へ送り付けてきたりしていたなぁ……」
桔梗は昔を懐かしむように語ったが、その内容は明日の天気は晴れと伝える、ニュースキャスターのような声音で語られる内容ではなかった。
「現役アイドルが結婚妊娠、とかに比べたら、私なんて全然だよ。私自身が傷つけられたわけではないし、大したことではない」
「大したことだ。神奈川焔華には報告したのか」
「……報告はしていないけれど、私のSNSが炎上していたのは確認しているはずよ。私が何も言わないから、焔華さんもずっと黙っていてくれただけ……」
桔梗が泣きながらもう無理だと氷室に助けを求めてきた辺りから雲行きが怪しかったが、よくよく桔梗から話を聞いてみれば、表に出していなかった不満が桔梗の中で積み重なって爆発しただけだと、氷室は話を聞いてようやく理解する。
「現役のアイドルだったら、握手会で怒られたり、身の危険を感じることだってあったと思う」
「……写真を燃やされることだって、充分身の危険を感じるようなことだろ」
「ああした人たちは、過激なことをして認知されたいだけなの。自分より弱い立場の女が思い通りにならなくて怒っているだけ。どうせすぐ、私のことなんて忘れてしまう」
桔梗はずっと、ファンに忘れないで欲しかったのだろうか。
その言葉を紡ぐ声音は、どこか寂しげな感情を含んでいるようにも聞こえる。
「別のかわいい女の子に恋をして、自分のものにならないと知って発狂するのを繰り返す。どんなに気持ち悪い顔や格好のファンでも、心の底から大好きって思えるアイドルは、私が知っている中では一人だけしかいないなぁ」
桔梗が所属していた国民的アイドルグループImitation Queenは、常にメンバーが10人ほど所属している。
彼女の話では、卒業生と現役のアイドルを含めてもファンからの好意を本気で喜び、心からファンを愛している本物のアイドルは一人しかいないと言うのだから驚きだ。
「Imitation Queenの由来、氷室先生は知らないよね」
「……そうだな」
「Imitationは、模倣とか、偽物を意味する。私達は、女王様を模倣した存在。全員、本物のアイドルにはなれなかった」
桔梗は本物のアイドルではないからこそ、Imitation Queenのメンバーとして輝くことを許されたのだと氷室へ説明した。
模倣、虚像、偽物。
Imitation Queenのメンバーには、大なり小なり秘密がある。
誰にも知られたくない秘密を胸に秘めた少女たちは、その秘密を大きな嘘で覆い隠して女王になりきるのだ。
「Imitation Queenの卒業メンバーは、公になっては困る秘密を隠し続けるのに疲れて、自分の秘密を打ち明けられる大切な人を探し求めて幸せを手に入れた。私は……ずっと羨ましかったのかもしれない」
大切な人と出会い、愛する人を自身のものにすることで。
初めてImitation Queenのアイドル達は、秘密を誰にも知られることなく墓場まで持ってくことを許される。
先輩たちがアイドルとして輝くのを辞め、芸能界から足を洗うことで秘密を守り続けた姿を目にした桔梗は、先輩たちと同じような幸せを掴み取るのが当然のように考えていたはずだ。
それが芸能人愛知桔梗としての終わりであると、信じていたのだろう。
だからこそ。
氷室がその終わりを拒絶したことに納得できず、大騒ぎしていたのだ。
氷室はImitation Queenの伝統など知らないのだから、話を聞くまで正解を導き出せるはずがない。
芸能人に望んでなれるならば、苦労はしないだろう。
桔梗のためを思うならば、彼女をこのまま芸能界で輝かせ続けることこそが正解としか思えないのだから。
まさかその言葉が桔梗にとって、秘密が暴かれるその日まで地獄で苦しみ続けろと同じ意味を持つ単語であるなど、氷室は思いもしなかったのだ。
「氷室先生も、私が天門総合病院の事件に関与していて、さーちゃんと交流があることに難色を示していたでしょう?氷室先生なら、もういいだろって、優しい言葉を掛けてくれるんじゃないかと勝手に期待して……悲しんでいただけなの」
桔梗の心が弱い訳では無い。
彼女は前例に習って、その日が来るのを待ち望んでいただけなのだ。
誰が彼女を責められようか。
氷室には圧倒的に、桔梗との対話時間が足りなかった。
(過去は変えられないが、未来はいくらでも変えられる)
車をマンションの駐車場に駐車した氷室は、エンジンを止めてシートベルトを外す。
「氷室先生……」
シートベルトをした状態で氷室を見上げた桔梗は、氷室を切なげに呼ぶと言葉の続きを口にしようとした。
(桔梗の望みは、俺と共に過ごすことだ)
その望みを叶えられないと氷室が2度も突っぱねようものなら、「離婚しよう」などと提案されてもおかしくはない。
紙切れ一枚を提出し、やっとの思いで夫婦になったのに。
瞬く間にバツがつけば、世間体がかなり悪くなる。
ただでさえ桔梗と氷室には親子に近い年齢差があるのだ。
色眼鏡で見られることも多い彼女へ、これ以上負担を掛けさせるわけにはいかないだろう。
「お前の気持ちを、よく理解していなかった俺が悪い。あまり自分を責めるな」
「氷室先生は悪くない。私が……っ」
「桔梗」
「私が、わがままだから……」
氷室は桔梗がこれ以上言葉を紡ぐことなどないように、彼女の唇を人差し指で優しく触れた。
ふにふにとした柔らかな触り心地を感じながら、氷室は言いづらそうに問いかける。
「……戻ってくるか」
「……私は問いかけられなくたって、最初から決めていたよ……」
「そうだな。もう一度、やり直しだ」
氷室の問いかけは桔梗のお気に召さなかったらしい。
頬を膨らませいじける桔梗へ、氷室は彼女が待ち望んでいた言葉を掛けてやる。
「芸能人をやめて、俺の側にいろ」
「……喜んで」
桔梗はシートベルトを素早い動きで解除すると、氷室へ飛びついた。




